『The Pictorial Key to the Tarot(PART1)』を解読しながら訳していく Vol.5

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『The Pictorial Key to the Tarot(PART1)』解読・翻訳シリーズ第5回のアイキャッチ画像。ウェイト=スミスタロットを徹底追究し、表面的な解釈を超え、より魅力的なタロットの世界へ!!

こんにちは。

最近、気付けば絶えずオカルトのことを考えています。

裏で行っている作業も割と大変で、かつてないほどにパソコンマンです。

起きたらオカルト(PCで)、目を休めようと本を読み(どういうわけか本も割とオカルト)、またやる気になってもまたオカルト、お風呂に入る時も、、、

一体いつから私はこれほどまで、オカルトマンになったのでしょうか?

寝ている時以外ずっとオカルト。。。

まぁ、嫌いではありませんが。

本当、人生って何があるかわかりませんよね。

さて、前回についてですが、ウェイトは「オカルトというものが事業や日常生活においてはあまり機能することがなく、また、オカルトをオカルトとして証明できるものは一般的な〝証拠〟とされるものとは違う」ということを伝えていました。

また「オカルトと神秘学の違い」「証拠の規範とは何か?」ということについてもかなり追究しました。

ウェイトはそこから何を言い始めるのでしょうか。。。

今回も楽しみです。

では、今回も張り切って参りましょう!!

今回の一文 ウェイトの美学!?皮肉に込められた装飾の実態とは?

では今回の一文です。

I know that for the high art of ribaldry there are few things more dull than the criticism which maintains that a thesis is untrue, and cannot understand that it is decorative.

Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より

今回は2つに分けます。

〝I know that for the high art of ribaldry there are few things more dull than the criticism〟

〝which maintains that a thesis is untrue, and cannot understand that it is decorative.〟

依然として、全文を読めたとしても、ふっと意味が入ってくることはありません。。。

来世があるなら、私は生まれながらに日本とアメリカとイギリスとカナダを飛び交うような人間、という設定でお願いしたいです。

「気付いた時には日本語も英語も普通に喋れましたね♪」みたいなのがいいです。

単なる行き来だけならまだいけるか。。。

いけないか。。。

では見ていきましょう。

醜悪こそ美の境地!?ウェイトの皮肉をどう理解するか?

はい、ではまず最初はI know that for the high art of ribaldry there are few things more dull than the criticismですね。

どうかあまり癖の強い単語では出てきませんように。。。

私にとって意味のわからない単語から調べていきます。

ribaldry → 猥雑な/下品なユーモア

dull → 鈍い、退屈な、くすんだ

criticism → 批判

※これらはほんの一例です。

何やら、この短い文の中に、また面白そうな単語が飛び交っていますね。

どのような展開になっていくのでしょう。

早速、順番に見ていきましょう。

〝I know that 〟「私は知っている~ということを」という感じですかね。

 何を知っているのか?が〝that〟以降に書かれています。

まず〝for the high art of ribaldry〟なのですが、こちらは「猥雑なユーモアは高尚な芸術において」という意味になると思うのですが、貶してるのか褒めてるのか、いまいちよくわかりません。

「猥雑」や「下品」と、直訳して良いものか悩ましいところでもあります。

下品なのにユーモア、、、しかも、この「下品でユーモア」は「高尚な芸術」に対して言っているのですよね。。。

となると、やはりどんなに「猥雑」だの「下品」だの「ユーモア」だの言っても、それは〝高尚な芸術〟ということになりますよね。。。

で、それはやはりオカルトやタロットのことを指していると思うのですが、、、

あ、ちなみに「高尚」という言葉は「上品」をより良く言ったような言葉で、まさに「下品」とは対照的な立ち位置です。

なんとなく皮肉を込めた文章なんだろうなということはわかるのですが、あまり言葉にして説明できるほど理解もできていません。。。

ちょっと先も見てみましょう。

少し長めになりますが〝there are few things more dull than the criticism〟です。

こちらは「批判よりも退屈なものはあまり存在しない」というような意味になると思うのですが、それはすなわち「批判=退屈」と言っているようなものとあまり変わらないと思うのですがいかがでしょうか?

本当にいつもいつも、やや曖昧で遠回しな発言が多いウェイトですが、これだけの技法を取り入れられるわけですから、もしかしたら他の著作ではもっとストレートに自分の言いたいことをばんばん述べているものもあるのかも知れない、と思いました。

かと言って他の著作を扱うかはわかりませんけどね。。。

仮にもこれ(『The Pictorial Key to the Tarot』)は、非神秘族にも向けた、いわゆる公に対してのというところがありますから、そりゃウェイトだってある程度の仮面を被って臨んでいたと思うのですが、それにしても遠回しの天才。。。

しかし、、、

結局のところ、ここでは「批判ほど退屈なものはない」というようなことを言いたいのだと思います。

そして「私は知っている」と。。。

もう、ほとんど結論出ていますが、一応まとめますね。

〝I know that for the high art of ribaldry there are few things more dull than the criticism〟

私は知っている、猥雑なユーモアは高尚な芸術において、批判ほど退屈なものはほとんどない

というような意味になると思います。

かなり直訳に近い形にしましたが、私自身いまいちまだ捉え切れていません。

ただ、〝ribaldry〟は「下品」ではなく「猥雑」とした方が良いような気がします。

「下品」とすると、もうそれは「下品」以外にないじゃないですか?

ですが「猥雑」とすると、あくまでも「下品な感じがする」ということで「下品」とはまた少しニュアンスが違ってきますよね?

そもそも日本語ではありませんが、ウェイトが愛するオカルトに対して、そのような言葉の選択肢はないかなと思ったので「猥雑」とさせていただこうと思いました。

全体の意味を知ってから、また改めて考えてみます。

無意味な批判の本質は?—退屈そのもの—

はい、では後半のwhich maintains that a thesis is untrue, and cannot understand that it is decorative.になります。

また、わからない単語から見ていきます。

maintain(s) → 主張する、断言する

thesis → 命題、論点

※これらはほんの一例です。

残~酷~な天使のテーゼ(thesis)♪

ですよ!?

エヴァンゲリオンです。

雰囲気、全然「テーゼ」とは読めませんけどね。。。

では順番に見ていきましょう。

〝which maintains〟「主張するもの」「断言するもの」というような意味です。

〝maintain(s)〟と調べますと、最初に「維持する」「メンテナンスする」なんていう風に出てくることが多いと思いますが、文脈によって「主張する/断言する」という訳になり、「ある考えを強く言い続ける」というようなニュアンスになるのだそうです。

基本的には全文の意味を知ってからでないと、判断しにくいものかも知れません。

そして、何を主張し続けてきたというのでしょうか?

それが〝that〟以降に書かれています。

〝that a thesis untrue〟こちらは「ある命題は事実ではない」というような意味になると思います。

先ほどのものと合わせますと、「ある命題(議論)では事実ではないと主張し、」というような意味になるかと。

あくまで本筋としては「命題」という意味の方が適切だとは思いますが、訳的には、「議論」というような感じでも良いかも知れません。

ですが、結局、、、なんて言ったら、飛躍し過ぎているかも知れませんが、「事実ではない=間違っている」という風にも見れなくないような気がします、先ほどの「批判ほど退屈なものはない=批判は退屈」と同じように。。。

そこまで難しい文だとは思っていませんでしたが、この微妙な言い回しをどのように訳しましょうか、こちらもまた悩ましいです。

そして、続きますのが〝and cannot understand that it is decorative.〟とありまして、「そして、それが装飾的であるということを理解できない。」というようなことを言っているかと思います。

うーん、、、わかるようでわからない。。。。

一度、まとめてみます。

〝which maintains that a thesis is untrue, and cannot understand that it is decorative.〟

ある命題が事実ではないと主張し、そしてそれが装飾的であることを理解できない。

というような感じでしょうか。

こちらも割と直訳に近い形かなと思います。

また、『当サイトの結論』で調整しますね。

では、まとめに入りましょう。

まとめ|結論・解説・考察

では、改めて今回の一文をご紹介します。

I know that for the high art of ribaldry there are few things more dull than the criticism which maintains that a thesis is untrue, and cannot understand that it is decorative.

Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より

そして、今回のこれまでの訳です。

→ 私は知っている、猥雑でユーモアな高尚な芸術において、批判ほど退屈なものはほとんどない

→ ある命題が事実ではないと主張し、そしてそれが装飾的であることを理解できない。

また、これまでの流れも把握できた方がわかりやすいと思うので、改めて前回の結論もお伝えしておきます。

さて、、、オカルトは神秘的な能力とは異なり、事業や日常生活において、それらと調和することは滅多にない。
またオカルトそのものも一般的な証拠の規範の知識とは調和しない。

最後に、これらの考察を踏まえ辿り着いた、当サイトの結論がこちらです。

私は知っている。——ある議論では、猥雑なユーモアが高尚な芸術にとって装飾的な役割を担うことも理解せずに、それについての真偽ばかりを論じているが、これほどまでに退屈なことはない——

短い一文だったのにも関わらず、かなり苦戦しました。

言わんとしていることはわかるのに、肝心の文章にするのに、何と言葉にしたら良いものなのか、、、なかなか上手くまとまりませんでした。

最近、私の中の流行りの—(エムダッシュ)を活用させてもらいました。

これ、けっこう便利ですね。

ちなみに、私個人としての言葉で表現するのなら「猥雑なユーモアを高尚な芸術の一部としてすら見れない頭でっかちはつまんない」です(笑)

酷いですよね、知性溢れるウェイトの文が台無しです。。。

それでなんですが、この結論に至るまでには、私なりの紆余曲折、葛藤がかなりありまして、ちょっとその辺も含めてお話しできればなという思いで、それらも含め解説に入りたいと思います。

もし宜しければ、最後まで聞いていただけると嬉しいです。。。

まずなんですが、、、

そもそも「高尚な芸術」と言っているにも関わらず、「猥雑なユーモア」と、自らの口でそのように例えてしまう意図が私には理解できませんでした。

だってそうじゃないですか?

普通、自分が気に入っているもの(こと)に対して、悪く言う人はそうはいないじゃないですか。

年々「どっちだっていいんじゃない?」という価値観(良ければ自己紹介文を見ていてください^^)が多岐にわたり芽生えつつある私ですが、それはそうなのですが、さすがにこれに至ってはそれを適応させようとは思えません。。。

なので、「どうして混乱するのか?」というところに焦点をあてていくわけなのですが、それはやはり「下品」と「高尚」が対立するものだからだと私は思うのです。

ですが、ご存じの通り、私という人間はほとんどが漫画とアニメとTVゲームで構成されているので、学術的なことは一切わかりません。

ですから、この表現方法が『文芸的な表現』という見方ができる、ということに気付くのに、とても時間が掛かりました。(意味伝わってますよね?)

このような表現方法は、一般的な文芸作品でこそあまり見られないようなのですが、似たようなものとして、例えば、シェイク・スピアの戯曲では、下品なジョークを交えながらも、深い哲学的なテーマを扱っているものがあったり、モンティ・パイソンというコメディ・グループは、皮肉たっぷりで下品なことを言うこともあるけど、知的なコメディを披露していたそうです。

これまで「モンキーパイソン」だと思っていました、、、

ドリカムの曲にあるんですよね。

モンキ~パイソンも~♪

ってそれ、、、実は「モンティ・パイソン」だったんですね。。。

それが、お笑いを通じて社会に対しての批判を巧みに表現するグループだったということを、今、初めて知りました。

ちなみに『go for it!』という曲です。

完全にいつも、猿と蛇を想像していました。。。

というわけで、今、ウェイトの表現と似たような表現方法として、シェイクスピアやモンティ・パイソンを例に挙げましたが、正直、私はこれらに関してもほとんど何もわかりません。

ただ、ぎりぎり、シェイクスピアであれば、昔、彼のさまざまな名言を調べたことがあって、なんとなく「確かに皮肉っぽいものがあったかもな、、、」という感じがしたので、改めて調べ直してみることにしました。

ぴんと来るかはわかりませんが、一応お伝えしてみますね。

ウェイトと似たような表現
(シェイクスピア編)

〝Brevity is the soul of wit.〟ハムレット』より
 =「簡潔こそ機知の神髄だ。」
 「批評や知性は冗長ではなく、鋭く簡潔であるべき」という考えの言い換え。

〝All the world’s a stage, and all the men and women merely players.〟『お気に召すまま』より
 =「この世は舞台、人はみなただの役者にすぎない。」
 → 人生や社会の構造を演劇に例えることで、表面的な価値判断の無意味さを主張。

〝Fair is foul, and foul is fair〟『マクベス』より
 =「美しいものは醜く、醜いものは美しい。」
 → 価値観の逆転や、表面的な判断の危うさを示している。

いかがでしょう?

改めてシェイクスピアに触れていて、けっこうウェイトと近いもの(順番的にはシェイクスピアが先ですが)があるかなと、私は感じたのですが。。。

それにしても、やっぱり深いですよねぇ。。。

よくもまぁ、こんなにも短い言葉でいろいろを想像させるなぁと、良い意味でぞっとしてしまいます。

また、念のために調べたモンティ・パイソンが個人的にけっこうツボだったので、こちらもぜひ知ってほしいという意図で共有します。(というか単に私が知らないだけで、みなさんは知っているかも知れませんね。。。)

ウェイトと似たような表現
(モンティ・パイソン編)

〝You come from nothing – you’re going back to nothing. What have you lost? Nothing!〟『ライフ・オブ・ブライアン』より
 =「人間ってのは、無から生まれて無に帰っていくってだけだろ?損することはないんだし、どこに悲しむ必要があるんだ?」
 → 人生の無意味さを逆に肯定するという視点。
 →「人生はゼロから始まりゼロに戻るのだから、失敗しても何も損はしない」という考え方。

〝It’s just a flesh wound.〟『ホーリー・グレイル』より
 =「ただのかすり傷だ。」
 → 騎士が腕を切り落とされても「大したことない」と言い張るシーン。
 →「明らかにダメージを受けているのに強がる」 という皮肉として使われる。

〝My hovercraft is full of eels.〟言語学習のコントより
 =「俺のホバークラフトは鰻でいっぱいだ。」
 → 無意味なフレーズとして登場。
 →「意味不明なことを言う時のジョーク」として使われたそう。

いかがでしょう?

敢えてここには載せませんでしたが、確かにちょっと下品と思えるような言葉を巧みに使ったものもありましたが、どれも言っていることはまともだなという感じで、私はけっこう好きだなーと思いました。

字だけ見ても「くっくっくっくっ」と笑えてしまったので、きっとみなさんの中にも面白いと思ってくれる方がきっといらっしゃると思います。

ということで、これらを例として考察しますと、ウェイトが綴った〝the high art of ribaldry〟=「猥雑なユーモアのある高尚な芸術」という言葉の意味も、捉えられるものがあるのではないでしょうか?

また、たまたまですが、調べてみますと、今、例に挙げたお二方、どちらもイギリスの方だったのですね。

モンティ・パイソンが活躍していたのは1969年頃だそうなので、ウェイトの時代よりは少し後になりますが、シェイクスピアが活躍したのは16世紀後半から17世紀初頭で、ウェイトの時代より遥か昔の人になりますが、でも未だに『シェイクスピア』という言葉を耳にするように、シェイクスピアの影響というものは長きにわたり続いているものだと言えます。

意外とロマンチストな男・ウェイトですし(私の主観ですが)哲学者ですからね、ウェイトがシェイクスピアの影響を受けた可能性は大いにあると思います。

ウェイト、2回結婚していますし、1度や2度くらいならデートでシェイクスピアの舞台なんか見に行っていたりするのではないでしょうか?

あるいはもっと。。。

まだまだ階級制度の強い時代だったと思いますが、安価な席であれば、庶民寄りだったと思われるウェイトも見に行くことができただろうと考えることができます。

20世紀初頭のイギリスの劇場内部。華やかなボックス席には貴族たちが座り、洗練された衣装をまとって劇を鑑賞している。一方、遠く離れた立ち見席や簡素な木製の席には庶民が集まり、舞台を見つめている。劇場の装飾は豪奢で、階級制度の格差が如実に表れている空間が広がる。

ということで!!

the high art of ribaldry〟=「下品なユーモアのある高尚な芸術」と言うウェイトの真意を、いくらかお伝えすることができたのではないでしょうか?

もちろん一般的にと言いましょうか、基本的には「猥雑」っていわゆる「低俗」ということだと思うのですが、(イギリスの強く階級社会制度がある時代ですし)そうは言っても、ウェイトは「高尚な芸術」の一部として扱っているということがおわかりいただけたのではないかと思います。

そして、、、

もう少し突っ込んでみたいのですが、ウェイトが何故このような表現方法を取り入れているのか?もしくは、取り入れざるを得なかったのか?なんて考えてみるのも、すごく有用だと思います。

何故なら、シェイクスピアも、モンティ・パイソンも、そのような皮肉を通じて社会に対する疑問や恐らくは不満なんかを、どうにかして世に知らしめようとしていたわけですから、同じような傾向かも知れませんよね。

実は、これだけ長い間「すごい」「偉人」と称されているシェイクスピアですが、確かに、富は得られ、裕福な暮らしをしていたそうなのですが、残念ながら爵位を与えられることはなかったそうなのです。

貴族ではない、ということんですね。

それがどういうことかと言いますと、、、

きっと、このような階級制度には多くの人たちが苦しめられたと考えられます。

そして、こういった貴族たちに文句の1つでも言おうものなら、それはもう命懸けとも言える厳しい時代だったということは、歴史の勉強なんかをしているとよくわかります。

本人を目の前にせずとも、それが明らかになった際には「侮辱罪」だなんて言って、簡単に死刑になることは日常茶飯事だったそうです。

実際には、イギリスよりもフランスなんかの方が酷かったそうですが、イギリスは「反逆罪」とかにもなったそうですよ。

いいですか?

今の世の中、当たり前のように政治家なんかに対して「バカ」だの「死ね」だの「辞めろ」だの、そんなことを平気で言う人がいますよね?

そのように思うこと自体は個人の勝手だと思います。

ですが、思うのと、口に出してしまうのでは、私はまったく別の問題だと思っています。

今の日本でも、「名誉毀損」という罪に問われる可能性は多いにありますからね。

まぁ、そのようなことは一旦横に置きまして、、、

であるならば、、、果たして、ウェイトや、シェイクスピア、モンティ・パイソンが、例えば彼らに対する不満や疑問をストレートに表現しても平気だったのか?ということなんですね。

だめに決まっているじゃないですか。

言えなかったに決まっていますよね。

だって、ちょっと何か言っただけで殺されてしまう可能性がある時代だったわけですから。。。

だからと言って、ウェイトがそうだったとは断言できませんが、あまり上手く例えられていないかも知れませんが、要は、このような言い回しでなければ、人に何かを伝える、それも貴族や王族と言った、恐らく彼らの目から見れば、偉そうにふんぞり返っているような人たちを相手にするには、一工夫も、二工夫もしなければ死んでしまうような時代だったということです。

本当に命懸けだったのだと思うんです。

確かに、ウェイトの文章には、皮肉や、一見「言いたいことがよくわからないな。。。」というものが多いです。

ですか、仮にも、今、私たちがこのように割と自由な立場で、割と自由に発言できる場が設けられているもっと昔には、このようなことがあった、、ということを知っていてあげるくらいの気持ちを持っていて良いと思うんですよね。。。

単に「皮肉ばかりで分かりづらい人」ではないと思うのです、私は。

実際、猥雑なユーモアとされる皮肉の奥には、知的な言い分が込められていることも多いですよね。

まだ大した量ではありませんが、それはこれまでの考察や訳を読んでいただければ十分に伝わるようなことだと思います。

また、直訳ではある議論が事実ではないと主張し、そしてそれが装飾的であることを理解できない。というようなことを言っていますが、これは言い換えますと、「猥雑なユーモア」と言っているのは「高尚な芸術」に対しての装飾なのに、そんなことも理解もできずに、オカルトを取り上げて批判(もはや『批評』とは呼べないようなもの)だなんて、退屈もいいところ、、、

あぁ、、、退屈過ぎる、、、

というようなことを言っていると思うんですね。

そう、「ろくに理解もできていない人の批判は退屈過ぎてどうしょうもない、、、」というようなことを言っているわけなんです、多分。。。

懐かしいですね。。。

〝Reface(序文)〟の本当の最初の方でも、同じようなことを言っていた記憶があります。

そう、、、批評って、単なる「あってる(正しい)」「間違ってる」だとかいうものを決定することではないのだと思うのですよね。

ですが、どうでしょう?

毎回のように言っていますが、こういうことって、結局は今の時代でも変わらずに起きていることなのではないでしょうか?

何と言いましょうか、今日で行わている「批評」って全然批評じゃないと思うんですよね、私的にはですけど。

かなり細かいことを言うかも知れませんが、またここからは私のかなり主観的な考えなので、合わないなと思った方は合わないで構いませんから、そっとページを閉じていただけると嬉しいです、、、

ですが、もし「聞いても良いよ」と思っていただける方にはぜひ聞いてほしいです、はい。

ちょっと勇気が要ります。。。

では。。。

私、日常的な会話の中で「退屈」と言うなら多分〝boring〟を使う方が一般的だと思うんですね。

実際、私がカナダにいた頃、友人に「〝つまんない〟って何て言うの?」と聞いたら、そう教わりました。

〝dull〟に「退屈な」という意味があるのは間違いないと思いますが、どちらかと言うと〝boring〟は主観的な「つまんない」を表し、〝dull〟はより客観的に面白みがないことを表す「つまんない/退屈」だそうなんですね。

ですが、またここで「客観的な退屈って何?」という感じがしたのですが、これこそが今に通ずるようなことだと私は言います。

私は、日本のあらゆるニュースにまったく、心から関心がないのですが、例えば日本のニュースは、まさしくこのような構造の繰り返しだと思っています。

何故なら、大して中身のない議論と、それが正解か否かを判断するだけの繰り返しにしか見えないからです。

来るべき明日をより良くするには?ということについて議論されることはほとんどなく、決まって何かや誰かを取り上げて「良い」か「悪い」かだけの判断を繰り返す、評論家という肩書きばかりの人たち。

もちろん、私にも善悪や正否の区別はあります。

ですが、どうせ2~3日もしたら、批判なり批評なりした本人すら覚えていないようなことに対して、どうしてそこまで内容のない議論を繰り広げられるのか、私にとってはそれそのものが退屈で、本当にそこに時間を割くという選択肢がまずありません。

当時のオカルト批判がどれだけのものだったかはわかりませんが、批評とも呼ぶに値しない無益な批判だけがただ飛び交っていたのだとういうことは容易に想像がつきます。

芸術の本質を見抜くこともなく、娯楽や退屈凌ぎの時間として消費されているような批判だなんて、さぞかし気分が悪かったでしょう。

それにしても、、、

時代は変わっているはずなのに、どうしてこのような構造がいつまでも根強く残っているのでしょうか?

コメント欄なんかでは、『批判』を『批評』と履き違え、『批評』という大義を盾にし、ただの暇つぶしをそれらしく行う技巧が見事なまでに洗練されています。

恐らく、やっている本人ですら気付いていないのが大半でしょう。

ある意味、それほどまでに「自己を守る」というのは、生物として本能的なものなのかも知れません。

ですが、せっかくなので、珍しく心理学の視点からお話しさせてもらおうと思うのですが、今お伝えしたことは「自分が無力であることを認めるのを恐れるばかりに、他者を裁くという偉業を成し遂げることにより、自己を正当化する」という心理構造と何ら変わりありません。

それはある種の麻薬のようなもので、表面的且つ一時的な快楽(安心)を得ることは可能でしょうが、その先に何が待ち受けているか、賢明なみなさんであれば容易にお察しいただけますよね。

ただ、、、

それに関しましては紛れもない事実だと思いますし、私自身の好みとしましても、このような思慮の浅い行動には少しも尊重はできません。

ですが、もっと深く追究していくと、根本的に、これらを行っている人が悪いとか、そういう話でもないと思うのです。

だってそうでしょう?

きっとそのような人たちの根底には、それをやらざるを得なければ自我が崩壊してしまうという恐れがあり、それが実際の行動へ繋がってしまう1つの原因として考えられますから。

かと言って、それを実際に行動に移してしまう以上、責任は伴うと思います。

ですが、その精神状態は決して健全とも言えないと思います。

ですから、私は「この世がどんなに豊かになったように見えていも、実際には全然そうじゃない。」と度々言っているのです。

どうか、多くの人が心から健康に笑って生きられる世の中であってほしいです。

明日のことを心配をしなくてもいいくらい、他人の批判なんてしなくてもいいくらい、そんなことを気にしなくてもいいような社会になれるよう、生産性のない批評や無益な批判を繰り返すことよりも、もっと大切なものに目を向ける必要があるのではないでしょうか。。。

私の主張は以上となります。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

いかがでしたでしょうか?

途中、私もウェイトに習って、私の目に映る今の世の中の一角に対し、すごい皮肉を込めて諭してみたんですが、気付いてくれました?

ちょっと意地悪過ぎましたかね、へへっ。

私、初めて、このようなことに取り組んでみたのですが、もしかしたら〝皮肉〟って、ちょっと面白いのかも知れません。。。

「ウェイトの文は皮肉が多過ぎてやってらんない」というようなことを仰る方が多いようですが、これ実際にやってみると案外面白いので、ぜひやってみてほしいです。

勘違いかも知れませんが、少し頭が良い人になったような、、、そんな気分にもなれました(笑)

違うか。。。

最後になんですが、、、

私、これまで「意訳」という言葉を知らなかったのですが、どうやら私が〝翻訳〟だと思ってやっていることは、きちんとした意味を調べると「意訳」に近いのかも知れないなと思いました。

「こういった世界を知らない人にとっても、なるべくわかりやすく!!」を心掛けて翻訳をしているつもりだったのですが、どうやら私の著者の言いたいことを改めて考え直し、その背景やら歴史なんかも考慮して訳すようなことは「意訳」と言うんですって!!

知りませんでした。

まぁ、これからも「翻訳」と言ってしまうと思いますけどね、、、余談でした^^

では、最後まで見てくださり、本当にありがとうございました。

また次回。

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