『The Pictorial Key to the Tarot(§2 TRUMPS MAJOR)』翻訳・解読【隠者】Vol.6 ~四大枢要徳 剛毅~
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こんにちは。
『タロットの世界』へお越しくださり、ありがとうございます。
現在は、Arthur Edward Waite著『The Pictorial Key to the Tarot』§2に記載されている、「隠者」の中にある『四大枢要徳』を翻訳中です。
ここから読まれたという方はそう多くはないと思いますが、『四大枢要徳』と言いますのは〝人間の徳の基本となる四つの徳〟となるもので、「思慮(Prudence)、正義(Justice)、剛毅(Fortitude)、節制(Temperance)」の4つの徳からなります。
「正義」と「節制」が終わり、今回は「剛毅」になります。
§2は表向きには〝(1910年当時の)マルセイユタロットの紹介〟ということになっていますが、大アルカナ9番の「隠者」まで読み解いてきた感触では、そのほとんどがウェイトの独擅場といった印象です。
悪いという意味ではありませんが、現状マルセイユタロットについてはほとんど語られている印象はありません。
ウェイトは「剛毅」を自身の大アルカナ8番である「力」のカードに割り当て、本来8番目に紹介されるはずだったマルセイユタロット「正義」との順番も勝手に入れ替えてしまっています(今のところ明確な理由はわかりません)。
ウェイトは全く読者に優しくない語り手ですので、私も必死です(あくまで主観です)。
ですが、ここ1~2回の中で、「もしかすると、この『四大枢要徳』を語る上で、何かしら強いこだわりがあったのかな?だから(勝手に)順番を入れ替えてしまったのかな?」と思うようになりました。
さて、3ページ強あった「隠者」も、ようやく半分ほどまで進めることができました。
前回の「正義」はかなり情報量が多かったので、今回はもう少し穏やかに事が運ぶと良いのですが……今回のターゲットである(c)の文章はなかなかの長文です。一気に読み進めるのも大変かと思いますので、ぜひ温かいお茶でも淹れて、の~んびりと進めていきましょう♪
前回の記事はこちら
もくじ
今回の文章:自分を失うという究極の強さ
今回扱う文章です。
(c) The state of Royal Fortitude, which is the state of a Tower of Ivory and a House of Gold, but it is God and not the man who has become Turris fortitudinis a facie inimici, and out of that House the enemy has been cast.
The corresponding counsel is that a man must not spare himself even in the presence of death, but he must be certain that his sacrifice shall be—of any open course—the best that will ensure his end.
The axiom is that the strength which is raised to such a degree that a man dares lose himself shall shew him how God is found, and as to such refuge—dare therefore and learn.
Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より
やや長文ですが、丁寧に紐解いていきたいと思います。
また一文ずつ見ていきます。
では、よろしくお願いいたします。
一文目:再表現された新たな「剛毅」
一つ目は〝(c) The state of Royal Fortitude, which is the state of a Tower of Ivory and a House of Gold, but it is God and not the man who has become Turris fortitudinis a facie inimici, and out of that House the enemy has been cast.〟です。
いつものように、まずは単語の整理から行います。
・royal → 王の、高貴な、堂々した
・fortitude → 剛毅(『四つの枢要徳』の一つ)
・state → 状態
・ivory → 象牙
・Turris fortitudinis a facie inimici → 神の前に立つ力の塔(ラテン語)
・enemy → 敵
・cast → 投げ出す、放り出す、追い出す
※ここでは一般的なものを挙げています。
では、進めていきましょう。
まず〝The state of Royal Fortitude〟ですが、こちらは「王のような剛毅の状態」というような意味だと思います。
ここで語られる『四大枢要徳』の「剛毅」をこのような呼称で再表現しているようですが、そもそも「剛毅」という言葉自体が〝状態〟を表すものだと認識していたので、最終的にどのような訳にするか少し悩ましいところです。
次に〝which is the state of a Tower of Ivory and a House of Gold〟ですが、こちらは「それは象牙の塔や、金の家の状態です」というような意味でしょう。
「象牙の塔」に「黄金の家」……そんな建物があったらすごいなと思いますが、また、キリスト教の聖書に書かれているような何かでしょうか?
この辺りの解説を道中に含めてしまうと酷く脱線してしまうので、詳細は最後にまとめます。ぜひ、解説や考察欄もご覧ください。
続いて〝but it is God and not the man〟ですが、こちらが「しかし、それは神であり人間ではない」というような意味でしょうか。
前回、スピノザを調べていて良かったです。
今回もスピノザの思想が直接関連しているかはわかりませんが、スピノザの思想を知った上で聞くと(あくまでほんの触り程度ですが)、宗教に馴染みのない私でも、少しだけ神様的な内容でも理解しやすくなった気がします(特別、拒否的な反応があるわけではありませんが、いまいち「?」となる時が多かったので)。
そして〝who has become Turris fortitudinis a facie inimici〟とありまして、こちらが「敵の前に立つ力の塔となった(者)」というような意味でしょうか。
「(者)」とありますが、こちらは直前の「神」を指していると思います。
また、読みづらいと思いますが一応読み方をお伝えすると、〝Turris fortitudinis a facie inimici=トゥッリス・フォルティトゥーディニス・ア・ファキエ・イニーミキ〟というような読み方になるそうです。
こちらは、ラテン語の聖書(詩編60章4節/ヘブライ語版では61章3節)に出てくるとても有名なフレーズだそうで、〝神による絶対的な守護〟を意味するそうです。
元来のユダヤ教の聖書はヘブライ語、キリスト教の聖書の新約部分はギリシャ語で書かれているそうなのですが、4世紀頃になると〝知的な共通語〟としてラテン語が広まったため、ラテン語訳のものが作られたそうです。ウェイトは、このラテン語版(Vulgata/ウルガータ)から引用しているのだと思われます。
最後は〝and out of that House the enemy has been cast〟ですが、こちらは「そして、その家の外へ敵は追い払われている」というような感じでしょうか。
ゲーム好きな私にとっては、「敵」は例外なく〝monster(モンスター)〟だと思い込んでいたので、〝enemy〟が「敵」という意味を持つと知り、とても驚きました。
では、一度繋げてみましょう。
〝(c) The state of Royal Fortitude, which is the state of a Tower of Ivory and a House of Gold, but it is God and not the man who has become Turris fortitudinis a facie inimici, and out of that House the enemy has been cast.〟
→ (c)王のように剛毅の状態、それは象牙の塔や、金の家の状態であるが、それは神であって人間ではなく、敵の前に立つ力の塔となった者であり、そしてその家の外へ敵は追い払われたのである。
まずはいつも通り、愚直なまでの直訳にしました。
日本語としては不自然ですが、なんとなくでも言いたいことはわかる気がしますよね。
やはり、今回も人間(あるいは俗世的なこと)ではなく、神が主体となっていますよね。
「敵」が何なのか、まだよくわかりませんが、ウェイト曰く『四大枢要徳』における〝剛毅〟を「王のように剛毅な状態」という呼称で再表現し、敵の前に象牙の塔や金の家の姿となった神が立ちはだかり(?)追い返した、というような内容なのではないでしょうか。
次の文章を見ていきましょう。
二文目:死を目前にしても、選ぶべきは「最善の犠牲」
二つ目の文章は〝The corresponding counsel is that a man must not spare himself even in the presence of death, but he must be certain that his sacrifice shall be—of any open course—the best that will ensure his end.〟です。
まずは、知らない単語の意味だけまとめます。
・spare → 惜しむ、出し惜しみする
・certain → 確かな、確信している
・presence → 面前、存在
・sacrifice → 犠牲、捧げもの
・course → 道、手段
・ensure → 確実にする、保証する
※ここでは代表的なものを挙げています。
なんとなくでも、使われている単語から感じ取れるものがありますよね。
では、参りましょう。
まず〝The corresponding counsel is〟ですが、こちらは「その対応する助言は~です」という意味です。
このフレーズは、「正義」や「節制」のところでも出てきたので覚えました。
少し長いですが、次に〝that a man must not spare himself even in the presence of death〟とありまして、こちらが「人は、死の面前でさえ、自分自身を出し惜しみしてはならない」という意味でしょうか。
私は死にたいわけではありませんが、もし本当に自分の目前に死があるのなら、自分を出し惜しみするとかしないとかではなく、「あぁ、死んじゃうんだろうなぁ…」と思ってしまうと思います。正直この一節があまり理解できません。
もし本当にそういう場面があるとして、そこで自分を出し惜しみしないというのはどういう状態なのだろうと考えますが、もし絶対的に死にたくないという心情だとしたら、「死にたくない!!!」と力の限り叫ぶというのが自分を出し惜しみしないということなのでしょうか(そんなわけないと思いますが…)。
あっ!!
表面的(文字通り)に受け取ってはいけないことを忘れていました!!
〝death〟とは書いてあるものの、実際には「死」ということを言いたいのではないのかも知れませんね。
「じゃぁ何?」と間髪入れずに浮かぶのですが、一旦ここは先へと進めて、全体を通して見る方が良いかも知れませんね。
つい思ったことをすぐ言ってしまいたくなるんですよね…(ちなみにそれでも「あっ!!」となるまで、まぁまぁの時間を要しています)。
では、続きまして〝but he must be certain that his sacrifice shall be〟ですが、こちらが「しかし、彼は、自分(彼自身)の犠牲が~になるであろうことを確信しなければならない」というような意味でしょうか。
そして〝—of any open course—〟とありまして、こちらは「―どんな開かれた道も―」という意味だと思いますが、つまり〝どんな開かれた道(進路)=選択肢〟というようなことを言っているのだと思います。
最後に〝the best that will ensure his end〟とありまして、こちらが「彼の終わりを確実にする最善のものにするであろう」というような感じでしょうか。
また、この「終わり」というのも何を意味するのか少し考えどころですね。
ひとまず一旦まとめてみましょう。
〝The corresponding counsel is that a man must not spare himself even in the presence of death, but he must be certain that his sacrifice shall be—of any open course—the best that will ensure his end.〟
→ それに対応する助言は、人は、死の面前でさえ、自分自身を出し惜しみしてはならないということであり、しかし彼は、自分の犠牲が―どんな開かれた道であっても―彼の終わりを確実にする最善のものにするであろうと確信しなければならない。
私自身は「最善な」とする方がしっくり来るのですが、日本語的には「最善の」が自然だそうです……。
内容はともかく、言っていること(表面上)の意味はわかりますよね。
早く全文訳したものを見たいです。
では、最後の一文へ進みたいと思います。
三文目:自分を失う強さが真理の道を開く
最後は〝The axiom is that the strength which is raised to such a degree that a man dares lose himself shall shew him how God is found, and as to such refuge—dare therefore and learn.〟です。
ここ最近使われていた単語もありますが、念のため確認していきます。
・axiom → 公理、原理、真理
・raised → 高められた、引き上げられた
・degree → 程度、段階
・dare(s) → 敢えて
・shew → showの昔の綴り
・refuge → 拠り所、避難所
・therefore → 故に、したがって、~であるからこそ
※ここでは代表的なものを挙げています。
まず〝The axiom is that〟ですが、こちらは「その真理は~ということである」というような意味です。
〝axiom〟は「公理」とか「原理」とする方が一般的のようですが、ウェイトの文脈では「真理」とした方が合っている気がして、最初に登場した時からずっと「真理」としています。
次に〝the strength which is raised to such a degree〟ですが、こちらが「そのような程度までに高められた強さが」というような感じかと思います。
まずは、直訳に寄せて参りますね。
続いて〝that a man dares lose himself〟とありまして、こちらが「その人が敢えて自分を失う」というような意味でしょうか。
〝dare(s)〟は他にも「思い切って」とか「勇気を持って」とか幅広い意味があるそうです。
「思い切って自分を失くす」というような意味なのでしょうか。
そして〝shall shew him how God is found〟とありまして、こちらが「どのように神が見付けられるのか彼に示します」というような意味だと思います。
それから〝and as to such refuge〟とありまして、こちらが「そして、そのような拠り所について」という意味です。
すっかり見落としていましたが、久しぶりに(ですよね?)「~に関して(ついて)」というフレーズが出てきましたね。油断していました。(笑)
せっかくなので、これまでの「~に関して」一覧表を掲載しておきます(下に行くほど硬い印象になります)。
| 表現 | 意味・ニュアンス | 使われる場面 |
|---|---|---|
| about | 最も一般的な「〜について」。ややカジュアルな印象 | 日常会話 カジュアルなビジネス |
| concerning | 「〜に関して」。やや硬く、問題・懸念など深刻な話題にも | 報道・公的文章 説明文など |
| regarding | 「〜に関して」。現代的で自然なフォーマル表現 | ビジネス文書 公式な連絡・案内 |
| as regards | 「〜に関して言えば」。やや格式あり、全体の話題導入に使われる | 書き言葉 論文や哲学的な語り |
| with reference to | 「〜に関して言えば」。やや古風で格式があり、構文重視の語りや文語的な導入に使われる | 書き言葉 古典的な論考・構造的な語り |
| as to | 「〜について言えば」。特定の要素に焦点をあてる補足的表現 | 公式文書 説明文中の要素補足 |
| in respect of | 「〜に関して」。契約・法律文書で使われる最も格式の高い表現 | 契約書 法律関連文書 |
最後は〝dare therefore and learn〟ですが、こちらは「~であるからこそ、敢えて学べ」という意味です。
〝learn〟が命令形だったので敢えて「学べ」としましたが、また最後に調整しましょう。
今まで考えたことがありませんでしたが、同じ〝命令〟でも、英語と日本語では少しニュアンスが違うのかも知れませんね。
何と言いましょう…日本人だからなのかも知れませんが、日本語で「学べ」と言われるとすごいきつい言い方に聞こえますが、英語で「ラーン(learn)」と言われてもまったく動じないと言いますか、「うん、わかったよ」みたいな軽い感じがするのは気のせいでしょうか。
あまり命令っぽくは感じないのですが、ネイティブの方が聞いたらどのように感じるのでしょうか。
そして、すぐさま調べたので報告したいのですが、やはり日本語の命令ほど強くは聞こえないみたいです。
「学べ」vs「ラーン(learn)」だったとして、後者は「覚えておいてね」「学んでね」「知っておくといいよ」「理解しなさい」というような雰囲気だそうです。
では、まとめてみましょう。
〝The axiom is that the strength which is raised to such a degree that a man dares lose himself shall shew him how God is found, and as to such refuge—dare therefore and learn.〟
→ その真理は、そのような程度までに高められた強さが、人が敢えて自分を失うということを、どのように神が見付けられるのか彼に示し、そして、そのような拠り所については――故に敢えて学びなさい
ちなみに「どのように神が見付けられるのか」とありますが、こちらは受動態ですので、〝神様が何かを見付ける〟というような神様が主体の話ではなく、「神がどのように(誰か何かによって)見付けられる(見出される/発見される)のか」というニュアンスです。
この一文はなかなか難しかったです。
少しずつ訳しているものの、まとめる時の順番があっているのかとても悩みました。
自分では文法通りだと思っているのですが、間違っていることもたくさんあると思います(これまでも、これからも)。
至らない点は多々あるかと思いますが、その点も含めて温かく見守っていただけましたら幸いです。よろしくお願いいたします。
では、『まとめ』に入りましょう。
まとめ
改めて、今回扱った文章をご紹介します。
(c) The state of Royal Fortitude, which is the state of a Tower of Ivory and a House of Gold, but it is God and not the man who has become Turris fortitudinis a facie inimici, and out of that House the enemy has been cast.
Arthur Edward Waite
The corresponding counsel is that a man must not spare himself even in the presence of death, but he must be certain that his sacrifice shall be—of any open course—the best that will ensure his end.
The axiom is that the strength which is raised to such a degree that a man dares lose himself shall shew him how God is found, and as to such refuge—dare therefore and learn.
『The Pictorial Key to the Tarot』より
また、これまでの流れも把握できた方がわかりやすいと思うので、前回の結論もお伝えしておきます。
(b)神的なエクスタシー、〝節制〟と呼ばれるものに対する均衡とされ、その兆しは酒場の灯りが消えることだと私は確信している。
それに対応する助言とは――父の国では新しいワインだけを飲むこと――何故なら、神は万物の全てであるからである。
その真理は、人間が理性的な存在であるからこそ、神に陶酔せねばならず、その典型例がスピノザである。
そして、今回のこれまでの訳です(多少不自然でも、なるべく原文に手を加えずダイレクトに訳したものになります)。
→ (c)王のように剛毅の状態、それは象牙の塔や、金の家の状態であるが、それは神であって人間ではなく、敵の前に立つ力の塔となった者であり、そしてその家の外へ敵は追い払われたのである。
→ それに対応する助言は、人は、死の面前でさえ、自分自身を出し惜しみしてはならないということであり、しかし彼は、自分の犠牲が―どんな開かれた道であっても―彼の終わりを確実にする最善のものにするであろうと確信しなければならない。
→ その真理は、そのような程度までに高められた強さが、人が敢えて自分を失うということを、どのように神が見付けられるのか彼に示し、そして、そのような拠り所については――故に敢えて学びなさい
最後に、本文の内容をより忠実に整えた(当サイト比)訳がこちらです。
(c)王なる不屈の精神、それは象牙の塔や金の家と並び、人間ではなく〝敵の前に立つ力の塔〟となった神であり、そしてその家の外へ敵は追い払われたのである。
これに対応する助言は、人間は死を目前にしても自分を惜しんではならないということであり、その犠牲は――どのような道であっても――自分の目的を確実にする最善であると確信しなければならない。
その真理とは、人間が敢えて自分を失うほどにまで高められた強さこそ、神がどのように見出されるのかを人間に示し、その拠り所は……であるからこそ、思い切って学ぶが良い。
「人間」を「ひと」と読んだ方が、なんとなく〝それっぽい〟雰囲気が出るような気がします。
いかがでしたでしょう。
私はとっても悩みました。特に二文目は本当に大変で、大変で……。
ひとまず最終的な訳は、これで完成とさせていただこうと思います。
みなさんにも、ウェイトが再表現した「剛毅」が伝わっていたら良いなと思います。
最後に、解説の方でもう少し詳しい内容についてお話しさせていただければと思います。
解説・考察
さてさて、今回の「剛毅」ですが、なんとなくでも伝わるものがありましたでしょうか。
「象牙の塔」に「黄金の家」、「敵」や「死」など、恐らく実際意味することとは違う言葉で表現されたものが多く、私は「あっ!そういうことか!」と納得いくまでのかなりの時間が掛かりました……。
もし仮に、私が生まれながらにキリスト教徒であれば「あっ、こういうことが言いたいんだろうな」と、もう少し早く気が付けることがあると思うのですが、そもそも宗教に馴染みのない人間ですからね(それは今もですが)。
というわけで解説に入りたいと思うのですが、ざっと一言で言うなれば、これは「自身のエゴとの戦い」の話なんですね。お気付きの方もいらっしゃったかと思います。
そこで、まずは使われている単語について掘り下げ、簡単にまとめたいと思います。
使われている用語についての解説
やはり今回も、キリスト教(正確にはカトリック)に深く関わる言葉でした。
ただし、ウェイトはそれをそのままではなく、〝精神状態を表す〟比喩として用いているようです。
象牙の塔
本文では〝Tower of Ivory〟とありましたが、元はユダヤ教の聖書『雅歌(ソロモンの歌)7章4節』に出てくるものだそうです。
『雅歌』は、恋人同士の美しさを、宝石や香料、建物などの別のものに例えて表現する詩だそうです。
私の人生観(世界観?)にはない存在しない価値観だったので、理解するのに少し時間が掛かりました……。
恐らく、私には詩的センスはあまりないのだと思います。
私もやってみようと思い考えてみたのですが、何を考えたら始められるのかすらわからず……ただただ斜め上の方を見ていただけでした。(笑)
聖書では「あなたの首は象牙のやぐらのごとく……」という一節から始まり、すらっとした恋人の首の美しさや気高さを表現した言葉だったそうですが、後に再解釈され、キリスト教カトリックでは、聖母マリアを象徴するための呼び名の一つとなったそうです。
象牙は「清らかさ」や「高貴さ」を、塔は「揺るがない強さ」や「守り」の象徴とされ、今もなお祈りの文章(言葉)として使われているようです。
つまり、「象牙の塔」そのものには〝象牙でできた塔〟という意味はなく、いつの時代も何らかの比喩として使われている言葉ということなんですね。それも遡るとかなり昔からのようで、びっくりです。
これまで、ウェイトの文章の中で、イエス・キリストを思わせる箇所は度々あったと思いますが、聖母マリアを思わせる(関連する?)文章は初めて出てきた気がします。
では、次は「金の家」についてです。
金の家
本文では〝House of Gold〟とあったこの「金の家」も、「象牙の塔」と同様、聖書に始まり、後に聖母マリアを象徴する呼び名の一つとして用いられるようになった語です。
元々は、『ソロモン神殿(Solomon’s Temple)』の内部がほぼ全面金で覆われていたため、このような比喩が生まれたと考えられています。
ところで、みなさんはこの『ソロモン神殿』をご存知でしょうか。
何処かの国にある建物なのでしょうか……。
結論からお伝えしますと、ソロモン神殿は多くの学者たちが「実在した」と考えているものの、実際の建造物(跡)は発見されていないという不思議な神殿なのです。
実在したと考えられているにも関わらず、神殿があったとされるイスラエルのエルサレムには、既に別の建物が建てられていて、当然発掘できるわけがありません。

出典:Andrew Shiva
Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)
中央の金色のドームが『岩のドーム(Dome of the Rock)』、その下にある横に広がった建物が『アル=アクサー・モスク(Al-Aqsa Mosque)』と言い、この一帯を『神殿の丘(Temple Mount)』と呼ぶそうです。
この神殿の丘に、ソロモン神殿があったとされています。
以前、私はこのサイトの作業とは関係なく、個人的にウェイト=スミスタロットの「女司祭」のカードを調べていた時に、この『ソロモン神殿』の存在を初めて知りました。

「女司祭」に描かれている柱が、このソロモン神殿の柱を描いたものだということを知ったので、なら「実物も見てみたい!!」と思い、YouTubeで関連する動画を探していたのです。
当時見た動画は海外の方が作ったものだったと思うのですが、基本的には全て英語で――私は〝調べて初めて英語がわかる程度の英語力〟=つまり英語はほとんどわからない〟ので、「普通に本物の神殿はあるけど、内部とかの説明もしたいからCG(3D?)を使って説明しているんだろうな」と思って見ていました。
今改めて見てみると日本語になっていて(〝オートダビング〟というやつですね)、正直「あの時の苦労を返せー!!」と言いたくなる気持ちもありますが、2~3年後そうなると知っていたからといって、その時に「○○したい!!」と思った気持ちを止められたのかと聞かれたら……それはまた別の話ですよね。(笑)
AIが凄まじい速さで発達していく中で、過去に自分が頑張ったと思える行いが「あぁ、いとも簡単に……」というような気持ちになることが多い昨今、いろいろな意味で、これからの人生をどう生き抜いて行こうか考えさせられます。
少し話が逸れてしまいました。
そんなわけで、ソロモン神殿は実在すると考えられるものの、実際に見たことがある人はいないという、今のところは〝聖書にそういう記述がある〟ということだけが事実の、不思議な神殿なんですね。
話を戻しますが、少し意外かも知れませんが、金は古代より「神聖さ」や「純粋さ」「不変性」を象徴するものだと考えられていたようで、そんな金がふんだんに使われたソロモン神殿は、神が宿るほど尊く、清らかで、価値の高い場所とされていたそうです。
ちなみに、『ソロモン神殿』というくらいですから、ソロモンという人物も実在したのかな?と思われる方もいらっしゃったかも知れませんが、実はソロモンという人物がいたかも定かではありません(聖書では実在した王として描かれているそうですが)。
そして、このソロモン神殿を表す「金の家」が後に再解釈され、聖母マリアを「神が宿った家」として称えるための呼び方として「金の家」が用いられるようになったのだとか(なんだかこの話〝シェキナー〟の話を思い出しますね)。
イエス・キリストが「父」とされることがあるように、聖母マリアにも、またいろいろな呼称があるのですね。
なかなか一言で「こういうものだ」と言い切るのは難しいのかも知れませんが、いずれにしてもウェイトはこれらのようなことを象徴するために「金の家」と用いたのではないでしょうか。
またいろいろと調べている中で、神秘主義では〝お約束〟と言っていいほど、〝塔〟は主に外側のことを表し、〝家〟は内面的なものを表すものとされていることを知りました。
つまり、「象牙の塔」は外側に対する強さのようなものだったり、「金の家」は内面的な尊さだったりを表している可能性が高いと考えることができると思います。
昨日今日参入したばかりの一タロット研究員でしかない私にとっては「〝塔〟は塔、〝家〟は家」と、とてもじゃありませんが、そこから即座に「強さ」「尊さ」「清らかさ」などという言葉は思い浮かびません。
ですがご存知、ウェイトは黄金の夜明け団、フリーメイソン、英国薔薇十字団などなど、数々の神秘主義団体(いわゆる秘密結社)に属していました。
このような背景も踏まえて考えますと、この短い二つの言葉の意味を併せて読ませることで、ウェイトの思い描く「王なる不屈の剛毅」を表現していたのかも知れないなと思いました。
では、最後は「敵の前に立つ力の塔」についてです。
敵の前に立つ力の塔
本文では〝Turris fortitudinis a facie inimici〟と記されていた、「敵の前に立つ力の塔」という意味を持つラテン語のこのフレーズですが、これまでのことを踏まえますと、「きっとこれも元は別のところで使われていた言葉に違いない」と思い調べてみました。
すると、意外な発見がありました。
元を辿ると、やはりユダヤ教の聖書が始まりのようですが、このフレーズ自体はラテン語訳されたものから引用したものと考えられます。
実際に、Vulgata(ウルガータ)60篇4節には、一言一句違わず〝Turris fortitudinis a facie inimici〟という記述があります。
ところでみなさん、今度は『ダビデ王』をご存知でしょうか。
実は、私も「ダビデ王」と聞いてはあまりぴんと来なかった(と言うか忘れていました)のですが、「ダビデ像」と聞けば「あっ!」と思われる方もいらっしゃるかも知れません。

出典:Livioandronico2013
Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)
そうなんです。
この写真を見たことある方は多いかと思いますが、かの有名なミケランジェロが作ったこのダビデ像とダビデ王は同一人物なのですね。
そして「敵の前に立つ力の塔」という記述は、まさしくこのダビデ王の言葉だったとされています。
しかし、この言葉を発した時のダビデの置かれた環境は、決して良いものではありませんでした(ちなみに聖書に綴られるダビデ王の物語はとても長く、ここで触れているのはほんの一部です)。
ダビデがイスラエルの王となり長い年月が経った頃、息子のアブサロムが反乱を起こし、ダビデはエルサレムを捨て逃げざるを得ない状況になってしまったのです。
〝王〟と聞いた時に多くの人が想像する王の環境とは随分とかけ離れますよね。
家族の裏切り、王としての立場も国も失い、味方もほとんどいないような状況。そして、ひたすら逃げ回る毎日。ダビデは心も身体も極限の状態でした。
そんなボロボロの状態の中、神に向かって叫んだ言葉――それが〝Turris fortitudinis a facie inimici(トゥッリス・フォルティトゥーディニス・ア・ファキエ・イニーミキ)〟=「敵の前に立つ力の塔」だったのです。
正確には、聖書では「あなた(神)は私の避け所、敵に対して強いやぐらです……」と語られています。
「象牙の塔」のところでもありましたが、〝やぐら(櫓)=高い建物=塔〟という表現になったのかなと思います。
一見「剛毅」と聞いて、「ダビデ王」と聞くと、いかにも「不屈の英雄」というような想像ができてしまいそうですが(それが間違いとは言いませんが)、この物語の背景を知ると、むしろ本文にあった「自分を失う」という記述は、何もかもを失い、もう神に頼るしか道がないという、どん底の状態のダビデを表しているような気もします。
それまでのダビデが、エゴにまみれていたかはわかりません。
動画を見る限りでは、「どっちとも…」と言えるような人物像かなと思うのが正直な気持ちです。
良いとこもあれば、「うーん…私的にはあんまり好きにはなれないな」というような面もあり、「まぁ、人間らしいっちゃ人間らしいのかな?」というのが素直な感想です。
日本で描かれるヒーロー像とは、また少し違うんだなぁという印象でした。
物語にはもちろん続きがあり(ここまでにももっと長いストーリーがあります)、最終的には息子アブサロムには勝利するのですが、今回の文章に関係あるのはこの部分なので、他は割愛します。
もしご興味がありましたら、ぜひ動画などもチェックしてみてくださいね。
ちなみに、私も10本ほどの動画を見てようやく繋がったのですが、このダビデ王、実は先ほどのソロモン王のお父様だったのです。
また、ソロモン王ほどではありませんが、ダビデ王も実在したかどうかは定かではないそうで、歴史的根拠は十分ではないそうです。
しかし、1993年に「ダビデの家」と刻まれた石碑が発見されたことで、完全に伝説だとも言えなくなったようで、ダビデの存在も未だ謎に包まれています。
ということで、「これ」と言った結論もないまま、ひたすら解説を進めてきてしまったのですが、とは言え、何故これらの語をウェイトが用いたという点については多少なりともお伝えすることができたのではないでしょうか。
それを踏まえ、もう一度今回の訳を見てみましょう。
(c)王なる不屈の精神、それは象牙の塔や金の家と並び、人間ではなく〝敵の前に立つ力の塔〟となった神であり、そしてその家の外へ敵は追い払われたのである。
これに対応する助言は、人間は死を目前にしても自分を惜しんではならないということであり、その犠牲は――どのような道であっても――自分の目的を確実にする最善であると確信しなければならない。
その真理とは、人間が敢えて自分を失うほどにまで高められた強さこそ、神がどのように見出されるのかを人間に示し、その拠り所は……であるからこそ、思い切って学ぶが良い。
一度目より、何か伝わるものがありますでしょうか。
私自身、みなさんにどのように伝わっているのか気になります。
また、たった今「あっ…これまで〝真理〟としてたけど、やっぱり〝公理〟で良いのかも知れない」と思ったのですが、ここではなかったことにしておきましょう……。(笑)
「エゴの話なんだよね」と言うのは簡単ですが、実際、私たちの日常ってエゴだらけだと思いませんか?
本文では〝死〟という言葉を使って極限の状態を表しているようにも思えますし、実際の物語の中でもダビデ王の状況は悲惨かつ過酷なものでした。
ですが正直、現代の日本で生きている限りは、それほどまでに追い込まれるような状況になることはまずないように思えます……ぼそっ(小声)。
それはそれとして……「エゴじゃない時ってあるのかな?」と思うほど、私は毎日エゴと一緒に生きていると思います。
エゴの言いなりです。
ですから、このウェイトの「剛毅」によると、私は自分の目的をほぼ達成できないことになります。(笑)
ただ、少し真面目な話をしますと、今回の訳に入ってから「何処から何処がエゴで、何処からならエゴじゃないのかな?」と、自分なりにふと心の中を見つめてみたりしていたのですが、正直私にはその線引きは難しいなと思ってしまいました。
例えば、「お菓子食べたいな~♪」という欲求はエゴなのでしょうか?
もし仮にエゴだとするのであれば、その根底にはきっと「食べたら虫歯になっちゃう/太っちゃう/体に悪い」といった、様々な恐れがあるのだと考えます。
ですが仮に、「私は自分の好きなお菓子を食べた方が幸せだ。だから食べる!!」と本気で思うような人(つまりたった今現在の私!!)にとっては、同じ行動だとしても、果たしてそれが本当にエゴになるのでしょうか。
逆に、もしそれがエゴではないのなら何なのでしょうか?
それを〝自分〟とでも言うのでしょうか。
ですが、ここでつい先日知り、そして感化されたスピノザ論を用いると、「もはやエゴでも何でもいいんじゃね?」というような気にもなってきてしまいます。
何故なら、神や自分を区別しないということなら、この〝エゴ〟と呼ばれるものすら神、あるいは神の何かだということになるではありませんか。
そう考えていると、考えること自体無意味に思えてくるのです。
とは言え、今回「エゴの話なのかな?」と薄々気付いてからは、身につまされる思いで訳していましたが…。(汗)
それでも、私は「エゴまみれでもいいかな」と思ってしまいました。お菓子好きですし。
では、今回はこれで以上となります。
最後まで見てくださり、ありがとうございます。
次回もまだ「隠者」は続きます(と言いますか、いよいよ次は『四大枢要徳』の四つ目です)。
また次回お会いしましょう。お楽しみに!!

