『The Pictorial Key to the Tarot(PART1)』を解読しながら訳していく Vol.36

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『The Pictorial Key to the Tarot(PART1)』解読・翻訳シリーズ第36回のアイキャッチ画像。ウェイト=スミスタロットを徹底追究し、表面的な解釈を超え、より魅力的なタロットの世界へ!!

こんにちは。

いつもご覧いただきありがとうございます。

「世間はお盆かぁ…」なんて思ったら、もうおしまいですね。

ここ青森県弘前市では、ふと秋めいた虫の声が聞こえてくるようになりました。

いつの頃からか――本当に1日1日があっという間な気がします。

みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

私はと言うと、子供の頃に1度は諦めかけしてまったゲームを、なんと30年越しくらいの時を経て、ついにクリアすることができました!!

たまたまウェイトの文脈(またはその派生)で見られる単語なんかが、同ゲームでも登場することがあったりして、当サイトでも何度か取り上げていたことがありました。

5月頃から、空いたすき間時間を縫って、トータル100時間ほどかかりましたが(ちなみに私はおやつを食べながら敢えてだらだらプレイするのが好きなのでこれが普通です)、細部に至るまでかなり遊び尽くせたと思っているので、とっても晴れやかな気持ちです。

引き続き研究を重ね、また2周目に突入するのが楽しみです。

みなさんも、2025年夏、良い思い出ができると良いですね☆彡(ご清聴ありがとうございました)

では、今回の本題に入りたいと思います。

前回の一文は、ウェイトが「大アルカナのカード1枚1枚全てに(アルビジョワで使われていたような)〝透かし〟のような機能が隠されているかも知れない」ということを述べていました。

また、今回これから触れられる点でもあると思いますが、その代表例として『カップのエース』が取り上げられていました。

念のため、お伝えしておきたいのですが、これまでのウェイトの仮説は、あくまで『仮説』であり、現代においても、歴史的な根拠として認められるものは確認されていないようです。(さっとですが一応調べました)

本人でさえ、「まるで作者である私すらも自分の立てた仮説に惑わされてしまいそうだ」なんて言っているので、基本的には全部〝創作〟として受け止めて差し支えないと思います。

個人的には、「よく自分で立てた仮説にそこまで酔い知れられるなぁ……。」という気持ちです。

何度もお伝えしていて恐縮ですが、それでもなお、あたかも真実かのように語るその様は、私はあまり好きにはなれません。

エジプト説を唱えた他の著名なオカルティスト同様に、例え真実ではなかったとしても、その時代の一オカルティストとして〝それっぽさ〟みたいなものを演出したかったのかも知れないなとは思うのですが、できれば個人的には、せっかく(?)他者を静かに批判するような気合いの入った一文を多数掲げていたわけですから、そこはありったけの〝真実〟で戦ってくれていたら良かったのになと残念な気持ちではありますが、まぁ仕方がありませんね。

どんなに〝問題児〟などと罵られてもウェイトも普通の人、もしかしたら〝稀代のオカルティスト〟というような、何かしら称号のようなものが欲しかったのかも知れませんね。

とは言え……それとこれとは話が別かなとは思うものの、段々と「まぁどっちだっていいか」と、私も折り合いが付いてきました。

気を取り直して、また、こつこつ進めていきたいと思います。

さて、いよいよこの【PART1】の§1も、残すところあと10回を切りました。(ちなみに§1~4まであります笑)

総じて、この§1はタロットの成り立ち(生い立ち?)のようなことについて触れられたパートだったみたいですね。

2~3でもカードの名前が出てきたので、もう少し「なるほど!そういうことだったのか!」というようなことを期待していたのですが……ちょっと残念でした。

少し気が早いですが、§2に入ったら、どんなことが語られるのか楽しみです。

ですが、その前に少しお休みをいただくと思いますがご容赦ください。(1ヶ月遅れのお盆休みを予定しております♡)

では、今回も丁寧に探っていきたいと思います。

よろしくお願いいたします。

今回の一文:命名しつつも沈黙――『聖体の象徴』とは何なのか

では、今回の一文です。

I should call it an eucharistic emblem after the manner of a ciborium, but this does not signify at the moment.

Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より

今回は短いので、このまま区切らずに見ていきたいと思います。

なんとなく、キリスト教っぽいニオイがしませんか?

……しないか。

では宜しければ、最後までお付き合いください。

呼び名は与えられるが、それが語られることはない

はい、では今回のI should call it an eucharistic emblem after the manner of a ciborium, but this does not signify at the moment.を見ていきたいと思います。

まず最初に、単語や熟語の整理から行っていきましょう。

eucharistic → 聖体の、聖餐の

after the manner of → ~の様式に倣って/ちなんで

ciborium → チボリウム(聖体容器)

signify → 意味する、重要である

moment → 瞬間、短い時間

※これらはほんの一例です。

みなさん、『聖餐(せいさん)』に聞き覚えがありませんか?

いつか何処かで扱いましたよね。(宜しければ、その時の記事もぜひご覧になってください▶▶こちら

懐かしいですね――『ローゼンクロイツ』――みなさんは覚えていらっしゃいますでしょうか?

まだわかりませんが、恐らく、キリスト教に関わる文献か何かから引用したと見て間違いなさそうです。

また後程、詳しく見ていきたいと思います。

では少しずつ見ていきましょう。

まず〝I should call it an eucharistic emblem〟ですが、こちらは「私はそれを聖体の象徴と呼ぶべき…」という意味なのですが……。

〝should〟は、通常「呼ぶべきだ」とされることが多いと思うのですが、実は「呼ぶべきかも知れない」という仮定の要素も持っているんですね。

あるいは「呼んだ方が良いはずだ」というようなニュアンスも持ちます。

また〝eucharistic〟と書いて「ユーカリスティック」と読む「聖体/聖餐」ですが、こちらももう少し詳しく調べる等してから、最終的な呼び方を決めたい方が良いと思いました。

聖体と聖餐では、まるで内容が異なります。

それと(どうしてこんな短い文章にいろいろが込められているのか…)、これまでにも何度かお伝えしてきていますが、ここでは「象徴」としていますが、恐らく、ウェイトが使う〝emblem〟という言葉の意味は、1つ1つに意味が込められた象徴の集合体を〝emblem〟と呼んでいるように思えます。

こちらも、以前に簡潔にまとめたものがありますので、宜しければぜひそちらをご参照ください。▶▶こちら

また、最後の方でいろいろと調整を掛けたいと思います。

次に〝after the manner of a ciborium〟ですが、こちらは「聖体容器の様式に倣って」というような感じかと思います。

この「聖体容器」のことを「チボリウム」(英語的な発音では「シボーリァム」)とも呼ぶそうなのですが、どう訳すべきなのかは、もう少し深く調べてから決めた方が良いような気がしました。

そして最後に〝but this does not signify at the moment〟ですが、こちらは「しかし現時点ではこれは意味を持たない」というような意味になると思います。

前回、「非常に際立った例」として〝カップのエース〟を例に挙げていたはずだと思うのですが、今回はまず、恐らくキリスト教における何らかを取り上げつつも、「今重要なのはそのことじゃない」というような構造になっているように思います。

個人的に、「だったらこの前置きは必要だったのだろうか……」という感じがしてしまうのですが、そこは、キリスト教を大事に思う〝ウェイトらしさ〟なのかなという気もします。

私も、タロットとは全然関係のない(けど自分的にはまったくないというわけでもないのですが)ゲームとかの話をつい挟み込んでしまうことがありますものね。

きっと、今私がウェイトに対して思っていることを、きっとみなさんが私にも思っているのかも知れませんよね。(……どうかお許しを)

はい、ということで、一通り見てみましたが、一度まとめてみたいと思います。

〝I should call it an eucharistic emblem after the manner of a ciborium, but this does not signify at the moment.〟

私はそれを聖体容器(チボリウム)の様式に倣って、聖体の象徴と呼ぶべきだろう、しかし現時点ではこれは意味を持たない。

はい、まずはとんでもないダイレクト訳に仕上げました。

いつもお伝えしていることになりますが、私は『まずは基礎が大事』と思う方なので、どうかそのような方針で今後ともお付き合いいただけると嬉しいです。(よろしくお願いいたします)

ですが、意味は伝わってきますよね。

ただ、言葉として理解できないものはある、といった感じで。

では、その辺りを細かく調べていきましょう。

少し早い気もしますが、『まとめ』に入りたいと思います。

まとめ|結論・解説・考察

では、改めて今回の一文をご紹介します。

I should call it an eucharistic emblem after the manner of a ciborium, but this does not signify at the moment.

Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より

そして、今回のこれまでの訳です。(多少不自然でも文の構造を優先しています)

私はそれを聖体容器(チボリウム)の様式に倣って、聖体の象徴と呼ぶべきだろう、しかし現時点ではこれは意味を持たない。

また、これまでの流れも把握できた方がわかりやすいと思うので、改めて前回の結論もお伝えしておきます。

私は、このような事柄において適切な判断を下せる者ではありませんが、大アルカナの全てのカード1枚1枚が〝透かし〟として機能していたかも知れないという事実は、私が引用した先の事例、並びに〝カップのエース〟に見られる、非常に際立った例によって示されています。

最後に、本文の内容をより忠実に整えた(当サイト比)訳がこちらです。

私はそれをチボリウムに倣い『聖餐』の象徴と呼ぶべきだろうか……しかし今ここでそれは重要ではありません。

このように整えました。

「意味する」という意味を持つ〝signify〟を訳すのに、かなり時間がかかりました。

本文は否定形なので「意味しない」「重要ではない」という意味になるのですが、「意味しない」と「重要ではない」では、まったく意味が異なりますよね。

今回、こちらの訳では「重要ではない」としましたが、「今この場では語る気はない」というニュアンスにも受け取れたり、「たった今それ(〝カップのエース〟が聖餐の象徴だということ)を言ったことに深い意味はないよ=けど、もしかしたら今後は意味があるかもね」というような含みも感じられ、どれであっても良い感じに文章が出来上がってしまうのでかなり迷いました。

今回は、一旦は「重要ではない」としてみますが、一応そういう選択肢(方向性?)もあるということを知っていただけたらなと思います。

では、今回の一文の、細かな部分の解説に入りたいと思います。

解説・考察

「またか…」という気がしなくもないのですが、今回の一文もまた、断定ではなく仮定形というような印象です。

「私はそう呼ぶべきなかも知れない」という言い方には、ウェイトの、キリスト教への敬愛が込められているように感じられます。

あくまで「私たちは(We)」とはせず、「自分は(I)」としていますもんね。

また、先ほども少し触れましたが、〝emblem〟という単語は、これまでのウェイトの文体を踏まえますと、〝カップのエース〟に描かれている杯を『1つの杯』として見るのではなく、『複数の要素(象徴)が合わさって構成されている杯』を意図している可能性が高いと思います。

それと、私も最初は文の内容が理解できなかったので、一度は「聖体の(eucharistic)」と訳しましたが、もしかすると、こちらは「聖餐の」とした方が内容をぐっと捉えやすくなるかなと思いました。

もし、私の解釈が正しければ、〝聖餐〟は「イエス・キリストの『最後の晩餐』を忘れないための儀式」のことを指します。

つまり、ウェイトは、「〝カップのエース〟は〝聖餐〟の象徴と呼ぶべきだろう」というようなことを言っているのだと思います。

そして、〝after the manner of a ciborium〟=「聖体容器(チボリウム)の様式に倣って」という表現も、今お伝えした、その〝聖餐〟と繋がっていることがわかりました。

具体的に言うと、〝ciborium〟には、主に2つの意味があるそうです。

  • 1つは、〝聖餐〟の際に〝パン〟を収めるための容器として
  • もう1つは、祭壇を覆う天蓋のこと

今回の一文では、前者を指していると考えるのが自然かと感じます。

そして、この〝パン〟は、イエス・キリストの身体(肉体)を象徴するものとされています。

「パンが身体?」と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、もし、より深くウェイトを理解したいということでしたら、ぜひ〝聖餐〟に関する解説動画なんかを参考にされると良いと思います。

ぐっと理解が深まります。

話を戻しますが、物凄く極端な言い換えをするなら、ウェイトは〝カップのエース〟に描かれている杯そのものを、「神が宿る杯」というような捉え方をしているのかなぁと思いました。

つまり、イエス・キリストを象徴する杯、という見え方になっていて、だからこそ「(熱心なキリスト教徒の)私であるならば、チボリウムの様式に倣って、聖餐の象徴と呼ぶべきかも知れない」という発言になったのかなと思いました。

これまでにも、ウェイトがキリスト教の聖書等に見られるフレーズをもじった文章を、度々引用してきたことは、ご承知の方も多いかと思います。

そこで、今回の一文にある〝eucharistic〟〝ciborium〟なんかも、「またそれに該当するのかな?」と思い調べてみたのですが、聖書自体には、これらの語は直接的には使われていないようでした。

ただし、〝杯〟に関連する話ならありました。

もしかしたら間違っているかも知れませんが、知らないよりは解釈の幅が広がるかも知れないとも思いますので、念のため共有しておきます。(参考程度にご覧ください)

聖書に見られる〝杯〟

  • 最後の晩餐
    『ルカによる福音書』22章20節
    イエスが弟子たちに「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である」と語る場面があります。
    → この〝杯〟は、(象徴としての)キリストの犠牲と契約の象徴であり、聖餐式の中心的な要素となっています。
  • 苦しみの杯
    『マタイによる福音書』26章39節
    イエスがゲッセマネの園で「この杯をわたしから取り去ってください」と祈る場面があります。
    → ここでは「杯」が苦難や神の意志を受け入れる象徴として使われています。

このようなことも知ってみると、ウェイトが〝eucharistic(聖餐の)〟という言葉を持ち出した理由も、少し理解できるような気がしませんか?

実際に、聖書には〝ciborium〟という単語が出てくることはないそうなのですが、聖体を収める器として、現代でも聖餐の儀式で使われているそうです。

これまで、キリスト教について何も知らなかった私が「チボリウム」を知らないのは当然のことですが、キリスト教に所縁のある方であれば、「チボリウム」と聞けば「あぁ、あれのことね!」とすぐに思い浮かぶほど、この器は――キリストの肉体を象徴するパンを納める聖体容器として――知られているそうなのです。

ですので、ウェイトにとってもまた、〝ciborium〟は聖餐にまつわる神聖な器として特別な意味を持っていたのだと考えられると思います。

その上で、「チボリウムに倣い」と記したのだと思いました。

ウェイトの一文は、「わかる人だけわかってくれればいいよ」というような記述が多く見られますが、今回の一文も、もしかすると、キリスト教の方で、尚且つタロットがお好きな方であれば、「ふむふむ」と頷けるような内容だったのかも知れません。

元々は、籠や箱が使われていたそうですが、4世紀頃から、金属製の蓋付きの容器=ciboriumになったとのことでした。

「何?」と考えたこともありませんでしたが、マルセイユタロットの〝カップのエース〟は入れ物だった(のかも知れない)ということなんですね。

マルセイユタロットのカップのエースに描かれた、聖体容器(チボリウム)を思わせる構造物。赤・黄・黒を基調とした幾何学的な意匠が特徴。
マルセイユタロットのカップのエース
(ニコラ・コンヴェル版)

〝ciborium〟と検索しても、普通にいろいろな形のチボリウムが見られました。(もし宜しければChromeの画像検索結果に飛べますので見てみてください▶▶こちら

個人的な感想を言えば、実際のチボリウムは、マルセイユタロットの杯ほど賑やかな感じではなく、表面がつるんとしたものが多い印象でした。

中には、細かな模様が施された華やかなものあったりして、「世の中にはこんなものがあるんだ~」と、また1つ面白い発見ができました。

海外のAmazonなんかでは、100ドル前後で販売されていました。

日本円ですと、今であれば15,000円くらいかなと思いますが、現地の人の感覚としては1万円前後といったところでしょうか。

似たようなもの……と言って良いのかわかりませんが、仏壇にお供えする器などと、用途としては近いのかも知れません。

私は、あまりそういったことが気にならないタイプなのですが、今この記事を書いている瞬間ちょうどお盆でしたので、なんとなく買ってきたちょっとお高めなぶどうを、得意気にお供えしてきました。

気付いたら今年ももうあと4ヶ月ほどなんですね……。

なお念のため、改めてお伝えしておきますが、今回の一文に関する記述や当サイトの考察は、ウェイト=スミスタロットの〝カップのエース〟ではなく、あくまでもマルセイユタロットの〝カップのエース〟のことだけに限ったものです。

しかしながらウェイトは、このようなことを今回の一文に込めつつも、最終的には「それは今ここでは問題じゃない/意味がない」というようなことを言っているんですね……。

個人的には「じゃぁ、なんでこれを言う必要があったのだろう?」という疑問が拭えていないままなのですが、いずれにしても、今回の一文も、どちからと言うと「ウェイトがただそう思いたいだけなんじゃないかな?」と、彼の願望の表れなのかなと思いました。

もしくは、「じゃぁ、この先は何かしら意味を持つこともあるのかな?」なんて、少し斜に構えた考えもあります。

みなさんにはどのように映りましたでしょうか。

今回の一文は、あまり決定的なものはありませんでしたね。

また次回に期待(?)しましょう。

では、今回はこれで終わりになります。

最後まで見てくださり、ありがとうございました。

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