『The Pictorial Key to the Tarot(PART1)』を解読しながら訳していく Vol.40
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こんにちは。
ご覧いただきありがとうございます。
突然ですが――ここ最近、『グノーシス』という思想に触れるようになってから、「人それぞれに思想というか、考え方があるというのは当然として、何故それを〝集〟にしようとするのだろう?」というようなことを考えていました。
かと言って、私にはこのような内容を議論し合える相手が身近にいませんで、ただひたすらAIとのやり取りを繰り返していただけなのですが、かなり飛躍した解釈かも知れませんが、最終的には「喧嘩は数ということなのかな」という結論に辿り着きました。(もちろん個人的見解です)
改めて、自分自身で完結できるということの大事さを知ったような気がしました。
とは言え、この〝地球〟という誰が作ったのかもわからない謎のシステムの中で生きていくには、そう一筋縄ではいかない気もしますが、私は『グノーシス』的な考え方は「好きだなぁ♪」と思いました。
……わかりますか?
このような考え方が、割とグノーシスに近いのではないかなと思うのです。
私の言葉で改めてお伝えしたいのですが、『グノーシス』って、「この〝地球(物質世界)= 自分の見える世界〟を〝幻想〟や〝虚像〟と見なし、内面的な知識(多分それがそもそもの『グノーシス』のことかと)によって、世界をより適切な捉え方ができるようになる」というような思想――そんなふうに解釈しています。
元からではないのですが、私自身も「目から得られる情報はあまりあてにはならないな」という考えが以前からあり、なんとなく響き合うものがあるような気がしました。
元々視力も悪いので、自分の目は然程頼りにならないとも思っているのですが、まぁ、そのような考え方が私にも一つあるということです。(とは言え、多分そこまで偏った人間でもないと思います、念のため……)
ということで、最近学んだ『グノーシス』について、少しだけご紹介してみました。
ご清聴ありがとうございました。
では、本題に入りたいと思います。
前回は、またしてもウェイトによる空想が語られた一文でした。
「もし、ハロルド・ベイリー氏が『タロット』のことを知っていたのなら、恐らく、私たちは『タロット』に描かれた絵柄の後ろ側に、各時代の名だたる神秘思想の影を見たに違いない」という内容が語られていました。
一見すると、意味は通じるようで、実際には神秘思想や象徴主義に馴染みのない方にとっては、少し捉えづらい一文だったかと思います。(言うまでもなく私もそうでした)
その辺りについても、少し掘り下げていきました。
正直、ここ何回かのウェイトによる空想は、「タロットを理解する」ということにおいては、あまり意味を持たない内容だった気がします。
せっかく訳したのに、自らこのようなことを言わなければならないのは非常に心苦しいのですが、事実、「ウェイトを理解する」という点では意味があったかも知れませんが、「タロットを理解する」という意味では、あまり直接的には関係のなかったことのように思います。
もしかしたら、そのようではないも知れませんが……。
このようなところも読んでくださっている方がいらっしゃるのだとしたら、改めてお礼の気持ちをお伝えします。
本当にありがとうございます、いつもいつも、これまでも。
あと2回ですので、ぜひ最後までお付き合いいただけましたら大変嬉しく思います。
もし宜しければ、またお茶やお菓子なんかをご用意の上、ごゆるりとお読みいただければ幸いです。
では、参りましょう。
もくじ
今回の一文:明確な線引き──語られるかも知れない『恣意的な憶測』とは
今回の一文です。
I do not look through such glasses, and I can only commend the subject to his attention at a later period; it is mentioned here that I may introduce with an unheard-of wonder the marvels of arbitrary speculation as to the history of the cards.
Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より
こちらを、以下3つのパートに分けて見ていきたいと思います。
〝I do not look through such glasses〟
〝and I can only commend the subject to his attention at a later period〟
〝it is mentioned here that I may introduce with an unheard-of wonder the marvels of arbitrary speculation as to the history of the cards〟
本文をそのまま引用しています。
ここで、あらかじめお伝えしておきたいことがあります。
それは、今回の記事には、批判、批評的な内容が多く含まれるかも知れないということです。
特にウェイトファンという方にとっては、不快に思われる部分があるかも知れません。
もちろん、そのような思いをさせることが目的ではありません。
そもそも、私もそんなことは望んでいませんでした。
しかし、ここのところのウェイトの一文は、私自身、戸惑いや憤りを覚える箇所が多く、一読者としても、その辺りの思いをどうしても素直にお伝えしたい気持ちがあります。
「それでも構わないよ」と思ってくださる方は、ぜひこのまま読み進めていただきたいのですが、そういった内容はあまり耳にしたくないよという方でしたら、今回は見送っていただいた方が良いかも知れません。
本来なら、ようやく残り2回を迎え、「やったー!完成だー!」なんて言って一区切りつけられたら良かったのですが、どうやら最後の最後までこのウェイトの殿様っぷりは続くみたいで……。
本音を言うと、訳してる私自身が読んでいても、内容そのものをあまり面白いと感じられていません。
それが本当に残念で仕方がないのですが、でも辞めたくもないんです、どういうわけか……。
ですが、そのような思いを抱えながら、何事もなかったように進めていくことは難しいと判断しました。
申し訳ない気持ちがありながらも、みなさんの胸をお借りするつもりで綴らせていただければと思います。
どうか、その辺りの我がままも含め、温かく見守っていただけますと嬉しく思います。
というわけで、本編に入る前にお知らせでした。(なお、この文章は一度記事を書き終えた後に追記したものになります)
では、よろしくお願いいたします。
「そのような眼鏡」――自身の語りに見る他者への拒絶
では、まず一つ目の〝I do not look through such glasses〟を見ていきたいと思います。
あまり難しいものではないので、このまま読み進めていきましょう。
一度に訳してしまいます。
〝I do not look through such glasses〟
→ 私はそのような眼鏡を通しては見ることはしません
というような感じでしょうか。
なんとなく〝do not〟とあるので、〝don't〟よりも少し丁寧で硬めにした方が良いと思い、このようにしました。
「そのような眼鏡」というのは、これまで語られてきた、ハロルド氏の研究や解釈のことを指していると思います。
要は、ここでは「私はそのような視点では見ていない/そのような見方はしない」というようなことを言いたいのだと思うのですが、何故かここに来て一気に線引きのようなものをしているように思えます。
少し前では「敬意と共に……」などと持ち上げていたのに、終盤に来てからというもの、落差がすごいですね。
前回か前々回で、ウェイトは、「ハロルド氏がもし『タロット』のことを知っていたのなら、きっとその背景にキリスト教グノーシス主義や、マニ教、そして彼が最も純粋な『原初の福音』として見なす輝かしいもの全てが見られたかも知れない」と、もはや妄想と言っても差し支えない仮定の話をしばし繰り広げていたのですが、あくまでこれらの主張は、ウェイトが一方的に述べたものであり、ハロルド氏の実像に基づいたものではないと思います。
ですので、自分で勝手に他人の視点や気持ちを推し量り、それに対し批判、批評するということをしているわけなのですが、ウェイトが語った〝敬意〟とは、一体何だったのでしょうか……。
また、どう考えても、私には、ウェイトが自ら勝手に眼鏡を掛けているようにしか見えないのですが、それでいて「私はそのような眼鏡を掛けない!!」と言うのは、かなりの矛盾、あるいは辻褄が合わない印象で、ウェイトには、このような感覚はなかったのだろうかという疑問が浮かび上がります。
もしかしたら、そもそもの私の解釈が間違っていたら、これまでの推測もてんで的外れということになってしまうのですが、一応その解釈で間違っていないという方向で、読み進めていきたいと思います。
これまで、長い間お付き合いくださっている方には言うまでもないことかも知れませんが、もうどうしてなかなか――本当に言葉がありません。
ひとまず、感情は一旦横に置き、次のパートへと進んでいきましょう。
責任の転移――提示するも他者に委ねる語りの末路
では、二つ目の〝and I can only commend the subject to his attention at a later period〟を見ていきたいと思います。
さっと、単語と熟語の確認をしておきます。
・commend → 推薦する、勧める、委ねる、託す
・attention → 注意、関心、注目
・at a later period → 後の時点で
※これらはほんの一例です。
まず〝and I can only commend〟ですが、こちらは「そして、私はただ~を委ねることしかできない」という感じでしょうか。
もしかしたら「推薦する」かも知れませんし「勧める」かも知れませんし、〝commend〟の持つ意味の幅が広いので、ここはとても悩ましいです。
同じ単語なのに、日本語としての意味にかなりの違いがあると、困ってしまいます。
ちなみに〝commend〟は、「褒める」として使われることが多いと思うのですが、その場合はほとんどが〝commend A for B〟という形で、〝commend A to B〟の場合は「AをBに委ねる/託す」という意味になるのですね。
何を「委ねる/託す/推薦する/勧める」のかというと、それが、こちらの〝 the subject to his attention at a later period〟でして、「その主題を後の時点で彼の注目へ」というような意味になると思います。
文法に沿って訳すと、かなり不自然な日本語になってしまいますが、恐らく、意味にそこまで大きなずれはないと思います。
「その主題」というのは、恐らく、【PART1】の§1の中で『アルビジョワ派』が出てきた辺り~ここ一帯のことを指すと思います。
しかし、こちらも先ほどお伝えしました通り、「その主題」に含まれると思われる内容そのものが、そウェイトの創作に過ぎません。(これは、ウェイト本人がそう仄めかしています▶▶ こちら)
ではここで、一度まとめてみましょう。
〝and I can only commend the subject to his attention at a later period〟
→ そして、私はただその主題を後の時点で彼の注目へ委ねる/託すことしかできない
という感じになります。
ひとまず、ここでは「委ねる/託す」にしましたが、念のため、もう一方の意味も当てはめてみようと思います。
→ そして、私はただその主題を後の時点で彼の注目へ推薦する/勧めることしかできない
どれが、ぴんと来ますか?
内容が少し掴みづらい気がしますが、恐らくこれは、ハロルド氏に責任を転移させているような文章になっていると思います。(断言はできませんが)
突然〝匙を投げた〟感があるの、わかりますか?
これまで自分の好き勝手に他者の研究の一部分を引用し、まるで自分が発案したかのように語っていたウェイトでしたが、急に「後はハロルド氏次第だね」というようなことを言い出しています。
このような表現はあまり好ましくないかも知れませんが、ウェイトは、仮にもこの時代の平民の中では〝知的〟という部類だったのだろうと思います。
私は現代の人間ですから、当然、現代的な視点からしか見ることできませんが、現代的な視点からでは、より〝知的〟と呼ぶには疑問が残る人物に感じられます。
もちろん、個人的な解釈ですが。
当時のまともな教育を受けている人なら、どのような文章を書くのかもわからないのにこんなことを言うのもなんですが、少なからず、他者を蹴落として自分を良く見せるような姿勢は、きっといつの時代であっても、受け入れられることはそう多くはなかったのではないだろうか、と思ってしまいます。
ちなみに当時、またはその前後くらいの、きちんとした教育を受けているであろうイギリスの著名人を調べてみたのですが、本を読まないということも相まってか、誰一人として知る人がいませんで……、軽い気持ちでは覗くには、ちょっと敷居が高く感じられ断念してしまいました。
調べた限りでは……
- オスカー・ワイルド(1854-1900)
- G.K.チェスタトン(1874-1936)
- ジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)
- ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)
- ラドヤード・キップリング(1865-1936)
このような人物の名が挙がっていました。
扱っているジャンルなども違うので比べようがないかも知れませんが、もしご興味ある方がいらっしゃいましたら、参考にしてみてください。
もし仮に、敢えてそのような立ち振る舞いをし、悪役のような立ち位置を装いたかったのだとしても、それにしては、自分に正当性があるような書き方をしているので、その線は考えにくいかなと思います。(つまり悪役にもなれきれていないと思うのです)
これまで、60ほどの一文を取り扱ってきましたが、例えば上流階級の人に対するような皮肉や、例えば自分以外のオカルティストに対する嫌味のようなものが込められた一文はまぁまぁあったように思います。
今思い返してみると、常に文の端々に、劣等感(コンプレックス?)のようなものが見え隠れしていたような気もします。
正確な数まではわかりませんが、どちらかと言うと、ウェイトの文章には、そのような傾向が多く見受けられたように思います。
ものによっては、私も「それは仕方がないかな(理解できるかな)」と思うものもありました。
ですが、正直ここのところの、特にハロルド氏に関する語りが始まってからのウェイトは、「腰が重いなー」というのが本音です。(しっかり更新頻度にも表れてしまって申し訳ない限りなのですが)
実質【PART1】§1の後半が、最後の最後までこんな感じで、本当に残念です。
かと言って、こちらは投げ出すわけにはいきませんけどね。(笑)
頑張りましょう!!
では、先へと進めていきます。
誰に許された語りなのか――語りに潜む〝演出〟の可能性
では最後に、三つ目の〝it is mentioned here that I may introduce with an unheard-of wonder the marvels of arbitrary speculation as to the history of the cards〟を見ていきます。
まずは、単語の整理から行っていきましょう。
・mentioned → 言及された、述べられた
・unheard-of → 前代未聞の、非常に珍しい
・wonder → 驚き、驚異、奇跡
・marvels → 驚くべきもの、奇跡
・arbitrary → 恣意的な、根拠のない
・speculation → 推測、憶測
※ここでは代表的な意味を挙げています。
また似たような語を重ねて、特定の意味を強調させようとしているのでしょうか。
- unheard-of(前代未聞の/非常に珍しい)
- wonder(驚きの/驚異)
- marvels(驚くべきもの/奇跡)
「驚き」を表す単語が立て続けに並んでいます。
「驚き」「驚き」「驚き」と、物凄く驚くべきことを表現したいのかも知れません。
では、少しずつ見ていきましょう。
まず〝it is mentioned here that I may introduce〟ですが、こちらは「ここで言及されたことは、私が紹介しても良いとされている」というような意味でしょうか。
一見、「ハロルド氏による承諾を得たのかな?」というふうにも聞こえなくないのですが、その点については明示されていませんので、「え?誰が?(紹介しても良いと言ったの?)」という疑問は拭えません。
これまでのウェイトの語りを紐解いてきた一人として公言してみようかなと思いますが、ウェイトは、「文(言葉)による誘導性(操作性?)が強いな」という印象があります。
これは余談になりますが、自分の悪事……を公言するようなものなので少し躊躇われますが(まぁでも、もう時効ですよね)、私自身〝ホステス〟という仕事をしていたので、その点に関してはプロだと思っています。
元々、そのような手法を好き好んで使うことはあまりありませんでしたが、自分一人で働いているわけではありませんから、どうしても苦渋を飲まなければならない時はありました。
決して〝したいこと〟ではありませんでしたが、そうした言葉巧みに人の気持ちを動かそうとする……それも仕事の一部でしたので、多少なりともそのような気配がする文章には、恐らく、敏感な方だと思います。
それに、これまでのウェイトの語りは、ほとんど事実感も曖昧ない上、ほとんどが彼の創作(歴史的根拠など極めて乏しい)であるというのが現状です。
ですので、この「紹介しても良いとされている」というのも、ウェイトの演出である可能性は高く、架空の人物を置き、信憑性を高めるような動きなのかなとも受け取れてしまいます。
……一旦この話は、ここまでにしておきましょう。
次に〝with an unheard-of wonder〟ですが、こちらは「前代未聞の驚きと共に」という感じかと思います。
何に対してそのようなことを言っているのでしょうか?
続いて〝the marvels of arbitrary speculation〟とありますが、こちらは「根拠のない推測の驚異」という感じでしょうか。
嫌味のようなものが込められている感じもしなくないので、もしウェイトっぽくするのであれば、「恣意的な」としても〝それっぽい〟感じがするかも知れません。
これは、ハロルド氏に向けられた言葉なのでしょうか……。
最後に、〝as to the history of the cards〟ですが、こちらは「そのカードの歴史について」という意味です。
久しぶりに登場しましたね。
これまで『The Pictorial Key to the Tarot』には、数ある「~について/~に関して」という単語(熟語)が登場しましたが、〝as to〟もその一つです。
以下、これまでに登場した「~について/~に関して」の使い分けやニュアンスを表にまとめたものになります。
| 表現 | 意味・ニュアンス | 使われる場面 |
|---|---|---|
| about | 最も一般的な「〜について」。ややカジュアルな印象 | 日常会話 カジュアルなビジネス |
| concerning | 「〜に関して」。やや硬く、問題・懸念など深刻な話題にも | 報道・公的文章 説明文など |
| regarding | 「〜に関して」。現代的で自然なフォーマル表現 | ビジネス文書 公式な連絡・案内 |
| as regards | 「〜に関して言えば」。やや格式あり、全体の話題導入に使われる | 書き言葉 論文や哲学的な語り |
| as to | 「〜について言えば」。特定の要素に焦点をあてる補足的表現 | 公式文書 説明文中の要素補足 |
| in respect of | 「〜に関して」。契約・法律文書で使われる最も格式の高い表現 | 契約書 法律関連文書 |
上に行くほどカジュアルな雰囲気になり、下に行くほどフォーマルで硬い文脈に適した表現になります。
ぜひ、参考にしてみてください。
では、一度まとめてみたいと思います。
〝it is mentioned here that I may introduce with an unheard-of wonder the marvels of arbitrary speculation as to the history of the cards〟
→ ここで言及したことは、私がそのカードの歴史について根拠のない推測の驚異を、前代未聞の驚きと共に紹介しても良いと述べられている
恐らく、「驚き」を強めたいがために用いられたであろう数ある「驚き」のせいで、文の構造に沿ってダイレクトに訳してしまうと、しつこいくらいの「驚き」の連続で、かえってわかりづらくなってしまっているかと思います。
ですが、内容としましては、そこまでわかりづらいものでもないですよね。
また、「ここでは」というのは、『The Pictorial Key to the Tarot』全体のことではなく、恐らくこの【PART1】の§1のことだと思います。(こちら、解説の方で詳しく掘り下げていますのでぜひご覧ください)
この一文、つまるところ、ウェイトが「私がこの章で、タロットの歴史について、まるで根拠のない推測とも言える驚異(それがアルビジョワ派関連のことかと)を、誰も聞いたことがないような驚くべき発見として紹介して良いと言われた」と言っていると思うので、まるでハロルド氏が許可しているようにも見えなくはないのですが……。
あくまで推測ですが、確かに、インターネットもない、仮にもウェイトの時代の、一タロットに憧れを抱いた読者が、この文章を読んだとしたら?
それは自ずと、『ハロルド氏が「良い」と言った』と思ってしまうのかも知れません。
確かにハロルド氏は、自身の著『A New Light on the Renaissance』の冒頭で、このように述べています。
❝It is a truth perpetually, that accumulated facts lying in disorder begin to assume some order if an hypothesis is thrown among them.❞ — Herbert Spencer
Harold Bayley著
『A New Light on the Renaissance』より
こちらは『無秩序に積み重なった事実も、仮説を投げ込むことで秩序を帯び始める──これは普遍的な真理である』という意味で、本人自ら〝透かし〟に対する研究を〝仮説〟と述べられていることが伺えます。
とは言え、ここで、実際に誰が許可したのかは語られてはいないんですよね。
もしかしたら、本当にハロルド氏本人が許可していたのかも知れないですし、ハロルド氏ではない(だとしたら余計誰なんだ?となりますが)別の誰かかも知れませんし、あるいはウェイトの自作自演である可能性も拭えません。
ただ、個人的には、仮にハロルド氏が許可を出していたのだとしたら、やはり、ウェイトの発言は目に余るところがあると思います。
何故なら、これまでの(アルビジョワ派に入ってからの)ウェイトの語りを要約しますと――相手を持ち上げる、相手の研究を利用する、切り捨てる(一線を引く)、自分に正当性がある――というような語りの構造で、これが〝普通〟の感覚とはとても思えないからです。
正直、何がしたいのかあまり理解ができません。
以前、「ハロルド氏はウェイトのことを知らない可能性もある」なんてお伝えしたことがありました。
それが今回、この一文に見られる疑問を徹底的に(できる限りで)解析していた中で、実は、ハロルド氏もウェイトの存在は知っていたということが明らかになりました。
しかし、私も、『The Pictorial Key to the Tarot』のように、一文一文を見ていったわけではないのですが、『A New Light on the Renaissance』の中では、そのようなことを許可したというような記述は見られなかったように思えます。
また、ハロルド氏が自身の著でウェイトの名を出しているそのほとんどが、自身の研究に対する一考察として取り上げているような形で、基本的には全ての引用部に元々の文献の記載があり、語り手としてであれば、個人的にはとても誠実さが伺える人物だと思いました。(当たり前っちゃ当たり前ではあるのですが……)
ウェイトの考察(基本的にタロットとは直接的に関係のないものが多かったです)を取り上げているからといって、全面的にウェイトの考えに賛成というわけでもなさそうでしたが、でも彼は、ウェイトのことを「学識があり、思慮深い人物」というように記述していました。
対しウェイトは、そのような引用を記載するどころか、どちらかと言うと、彼自身がよく外側に向けて発していた〝欺瞞〟とも捉えられるような語りが続く印象があります。
人間性……とまで言っていいか迷いますが、正直それは、〝違い〟ではなく〝差〟だと感じてしまいます。
また仮にも、同世代の人物で、お互いの存在は知っていたにせよ、知名度的には既にウェイトの方があったと考えられ、もちろん、ハロルド氏が許可したことも否定はできないのですが、なら尚更、個人的には、ウェイトは未熟な人だなと思ってしまうのです。
参考程度に留めてほしいのですが、ハロルド氏の〝Bibliography(参考文献)〟にはウェイトの名前が記述されていましたが、ウェイトの『The Pictorial Key to the Tarot』の参考文献には、ハロルド氏の名前はありませんでした。
正直、このようなところからも、『敬意』どころか、傲慢さのようなものが感じられてしまいます。
非常に残念です……。
みなさんは、どのように思われましたでしょうか。
では、『まとめ』に入りたいと思います。
まとめ|結論・解説・考察
では、改めて今回の一文をご紹介します。
I do not look through such glasses, and I can only commend the subject to his attention at a later period; it is mentioned here that I may introduce with an unheard-of wonder the marvels of arbitrary speculation as to the history of the cards.
Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より
そして、今回のこれまでの訳です。
多少不自然でも、なるべく原文に手を加えずダイレクトに訳したものになります。
→ 私はそのような眼鏡を通しては見ることはしません
→ そして、私はただその主題を後の時点で彼の注目へ委ねることしかできない
→ ここで言及したことは、私がそのカードの歴史について根拠のない推測の驚異を、前代未聞の驚きと共に紹介しても良いと述べられている
また、これまでの流れも把握できた方がわかりやすいと思うので、改めて前回の結論もお伝えしておきます。
私たちは、タロットの背後に輝く、キリスト教グノーシス主義、マニ教、そして彼が最も純粋な『原初の福音』とみなした全ての幻影を、きっと見ていたことでしょう。
最後に、本文の内容をより忠実に整えた(当サイト比)訳がこちらです。
私はそのような見方はしませんし、今後、彼がその件に関して着目してくれるかどうかは、私はただ彼に委ねるしかありません。(私がここで述べた、タロットカードに関するまるで根拠のない空想による驚異は、前代未聞と驚くべきこととして紹介しても良いとされています。)
はい、このような形に仕上げましたがいかがでしょうか。
今回の一文、使われている単語の意味が、かなり幅広い意味で捉えらえれるので、とても大変でした。(そっちの意味でもかなり時間が掛かってしまいました)
また、細かく見ているとわかるのですが、使われている単語の時系列がかなり曖昧で、〝今ここ〟でのことを言っているのか、未来のことを言っているのか、物凄くわかりづらかったです。(そして、それは最後までわかりませんでした)
かなり細かく見ていったと思うので、そこまで酷いずれはないのではないかと思います。
三つ目の文章が、急に内容が変わる感じがあり、日本語としてスムーズにするのが難しかったのですが、スルーしていたかのようできちんと目には入っていたセミコロンがあり(;)三つ目の文章に括弧を使うことで、割と自然な流れにできたと思います。
どうぞお納めください^^
今回は、割と道中で細かな点についても触れてきたと思うのですが、もしかしたら、重複する部分もあるかも知れませんが、改めて今回の一文について解説を行いたいと思います。
解説・考察
早速ですが、まずは時系列についてお話ししたいと思います。
本当に、今回の一文はかなり厄介でした。
この一文、文法としては間違いなく現在形なんですよね。
ですが、〝may(~にしても良い)〟とあり、これだと「これから紹介することが許されている」というようなニュアンスになるので、〝未来〟を思わせる要素があるというようにも受け取れてしまうんです。
また、〝here(ここでは)〟ともあり、仮に未来のことを語ったものだとして「これから(ここから)」と読むにしても、既にこの一文は§1の最後から2つ目の文章であり、それを「これから」と言うのは、少し不自然な気がします。
「ここでは」=「これまで語ってきたこと」=「これは〝過去〟のことを言っているのかな?」とも感じられて、物凄く曖昧なんです。
仮に§2でも、この話題が続くのであれば、まだ言いたいことは伝わってくるものがあると思うのですが……。
あっ!!
なるほど!!(そういうことか!!)
ということで、§2の冒頭をさっとAIに要約してもらいました。
現状、AI曰く「§2では『驚くべき空想』が多数紹介されています。」とのことでした。
私も、極力適当なことを言うのは避けたいので、Chromeの標準機能にある「日本語に翻訳」を使い、さっとですが§2の冒頭の部分を確認してきました。

すると、ウェイトがただ考えた創作や空想を語っているというよりは、元々あるそれぞれのカードの歴史的な解釈などに対し、ウェイトが批判的に語っている、というような印象でした。(ちなみに§2では大アルカナのカード全てが取り上げられていましたよ)
それと、なんとなく気になって調べてみたのですが、今回の一文の目玉でもある(ですよね?)、〝may(~しても良い)〟=「誰が許可したの?」という件についてなのですが、そこにハロルド氏の名前が挙がるのが不自然なほど、これ以降〝Harold Bayley(ハロルド氏)〟という記述はありません。
つまり、この§1で取り上げられている以降、ハロルド氏は一切登場しないんです。
道中でもお伝えした通り、『The Pictorial Key to the Tarot』の参考資料の欄に、〝Harold Bayley〟という記述がなかったことも含め、本当に「どの口が(敬意とか)言うんだか……」というのが、率直な感想です。
それに加え、この〝may〟ということを使うことにより、敢えて、ここでの内容を明確にしないという意図が強いと少しでも推測できるため、やはり個人的には、ウェイトの自作自演の可能性は高いと思います。
一方、〝may〟を使うことにより、§2という〝未来〟で好き放題言いたいための〝布石〟のような一文になることも可能なんですね。
そうしますと、この一文の中にある〝here(ここでは)〟は「これから」という意味もあてはまってしまうことになります。
つまり、見方によっては、一つの文で〝現在〟〝過去〟〝未来〟のことを表しているという、もしかしたら物凄く高度なことをしているのかも……というふうにも捉えられなくはない気もするのですが、個人的には、単なる〝逃げ〟のようなものにも感じてしまいます。
どういう意図なのかは見当もつきませんが、§1の特に後半に入ってからは、〝逃げ道〟という余地を残した語りばかりしているので、個人的にはその類なのかなと思ってしまいます。
はっきりとは言えない(言いたくない、させたくない)理由があるのだと思うのです。
個人的には、これはもう『ウェイトマジック』だなんて呼べるものではなく、明らかに読者に対し、曖昧にしておきたい部分なのだろうとも捉えられ、「だったら最初から口にすべきではないのでは?」というのが自論です。
一見、いかようにも受け取れるような文章にも見えますが、個人的には、一読者としてはあまり良い気分がするものでもなく、どちらかと言うと、読者のことを思って惑わせる(考えさせる)文章を書いているというよりは、自分の正当性を誇示するために曖昧な語を選択している気がしてなりません。
ただ、今回の一文を読み進めていく中で気付いたことがあったのですが、それは、私自身、ウェイトを『タロットに物凄い思想を取り入れた人』として見ていて、無意識に「ならきっと、すごい人格者に違いない」という過度な期待をしてしまっていたのだなと思いました。
残念ながら、現時点ではですが、私はウェイトはそのような人物ではないという見ております。
確かに、この世の中的にも、才ある人が=人格者だとは限らないですもんね。
そうあってほしいと思うのは、私のエゴなんですよね。
でも、そうあれと願うのも、また私の勝手でもあるとは思いますが……、私自身、そのような眼鏡を掛け、そのような前提があると思い込んでウェイトを見ていたことに気付かされた回でもありました。
だからと言って「何」ということでもないのですが、反省……と言うのも少し違う気がするのですが、きっとこういうことって、知らず知らずのうち、日常でもやっているんだろうなと思うので、少し自分の行動を改めようと思います。
まぁ、でも、確かに私は日頃、眼鏡を掛けていますが。
……って、そんなことは聞いてないか。
あ、そうだ。
ごめんなさい。
実は、まだ続きがあるんです。
既に膨大な量に達していると思うのですが、もし宜しければ、休憩なんぞを挟んでいただいて、ぜひお茶とお菓子のおかわりをご用意くださいね。
「眼鏡」で思い出したのですが、本文にあった〝such glasses(そのような眼鏡)〟という意味はわかりましたか?
念のためお伝えしておこうと思います。
道中でもお伝えしましたが、これは、これまでハロルド氏によって研究されていた〝透かし〟をはじめとし、前回のウェイトが語った「もしハロルド氏が『タロット』のことを知っていたのなら、キリスト教グノーシス主義やマニ教、そして彼が最も純粋な『原初の福音』と見なす、素晴らしい象徴がタロットの背景に見られていたかも知れない」という妄想など、要は〝何かに対して象徴を見出す〟という姿勢のことを指しているのかなと思います。
ですが、ここで少しおかしいと思ってしまうことがあるのですが、「あれ?ウェイトよ、あなたも十分に象徴主義者じゃなかったっけ?」ということなんですね。
恐らく、同じように感じた方はきっといらっしゃると思います。
そうなんです、普通に、ウェイトも象徴主義者であり、そして神秘思想の持主でもありますよね。
私も象徴主義などといったことに、まったく詳しくはないのですが……と言いますか、むしろこの『The Pictorial Key to the Tarot』を扱って以来、生まれて初めてこれほどまでに「象徴」「象徴」と口にしているくらいなのですが……。
恐らくなのですが、私奴のような、つい先日〝象徴デビュー〟した者からすると、一見、ウェイトもハロルド氏も同じような象徴主義者だと思ってしまうのですが、きっとここでも、ウェイトなりの、何か線引きのようなものがしっかりとあるのだと思います。
この一つ目の文章も、かなりしたたかな印象があり、否定はしないけど、距離的なものを取っている感じがします。
これまで、散々ハロルド氏の研究を一部分を得意気に語りながらも急に落とすという、常人には考えられない状況になっていると思うのですが、つまるところ「僕は違うよ、彼とはね」というようなことを言っているんですよね。
そりゃ違うのでしょうけど、なんだか残念で仕方がありません……。
これまでも、何度もお伝えしていることになりますが、あくまで、ウェイトの視点からの一方的な推測、もしくは憶測でしかないのですが、ハロルド氏の研究――ここでは主にアルビジョワ派の透かしについて――を、過剰な空想と述べていて、そして「僕はそんな過剰な空想を語るような人間じゃないけどね」というようなことを言ってるのですが……。
これまで散々ハロルド氏の研究を引用しておいて……。
ここからは、私がこれまで『The Pictorial Key to the Tarot』を訳していて感じたことなので、聞き流してくださっても構いません。
もし聞いてくださるのであれば嬉しいです。
結局のところ、私は、ウェイトという人物は、本当にはまったく自信のない人だったのだろうと思います。
確かに、そこまで自信満々な人、というのもそういるものではありませんが。
仮にも、この『The Pictorial Key to the Tarot』を出版した当時、ウェイトは53歳、恐らく、ウェイトの時代でも〝十分に成熟した大人〟として扱われる年齢だったでしょう。
それにも関わらず、ウェイトから感じられるのは、『英国紳士』とは程遠く、どちらかと言えば何かに対する敵意のような〝鋭さ〟のようなものが感じられると思います。
基本、ずっと怒っているような、なんか落ち着く~とか、面白い~とか、そういう和やかな感じはあまり見られませんよね。
かと言って、私も、実際の英国紳士がどのような振舞いをするものなのかは知る由もないのですが、ちょっときつい言い方になってしまいますが、あまりにも品格がないと言いましょうか、私が思う英国紳士像とはかなりかけ離れた印象があります。
当時を生きていないのでわかりませんが、仮に平民だからと言って、そのことにコンプレックスを抱いたとして、だからと言ってウェイトのような語りはあまり良いものだとは思えません。
もしかしたら何処かでお伝えしたことがあるかも知れませんが、やはり文字と言え、文章にも表情があると思うのですね。
仮にも、私に対して何か嫌なを言われているわけでもないのに、そんな私が、他者のことを批判するような文章を見て「うーん」となるのは、よっぽどだと思ってしまうんですよね。
多少なりとも心理学などを学んでいることもあるため、「いや、(そのように思ってしまうのは)私に原因があるのかな……」なんて思ったりもして数日考えていたのですが、恐らく「もう、そういう人なんだろうな」と、さっと受け流してしまう方が良いと感じました。
どこまでいっても真意はわかりませんが、私も気を付けなければなと思うばかりです……。
いつも、上手くまとめられているとも思ってはいないのですが、今回は特にまとまりのないものになってしまっていたかも知れません。(本当に申し訳ないです)
現状、これでも一応かなりの気を遣っているつもりではあるのですが……とは言え、私は英国紳士どころか、普通の家の出ですので(正当性、正当性っと♪)、至らないところは多々あると思うのですが、それでも、きっと温かく見守っていただける方のほうが多いと信じて、これからもほどほどに頑張っていきたいと思います。
では今回は、これで以上となります。
本当にここまで長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
いよいよ次回は§1最終回となります。
お楽しみに!!


