『The Pictorial Key to the Tarot(§2 TRUMPS MAJOR)』翻訳・解読【隠者】Vol.5 ~四大枢要徳 節制~

この記事は約 27 分で読めます。

『The Pictorial Key to the Tarot(§2 TRUMP MAJOR)』翻訳・解読【隠者】のアイキャッチ画像。

こんにちは。

『タロットの世界』にお越しくださり、ありがとうございます。

お元気ですか?

前回から、ウェイトによる再表現された『四つの枢要徳』の解説が始まりました。

前回は、その中の一つ〝正義(Justice)〟を取り上げました。

〝Transcendental Justice(超越的な正義)〟と称し、『神の側(真理)へと自分を導くためには、例えいかさまだってする必要があるのだ』というようなことを述べていました。

とっても重たく、力強い内容だったかと思います。

「タロットのことと関係ないじゃん」と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、それはその通りなのですが……ウェイトの思想を知る=今ある多くのタロットの基盤となった作者の解釈を知るということにもなりますから、全く関係ないということでもありませんよね。

ウェイト=スミスタロットは、言ってしまえばウェイトの思想そのものですし。

加えて、思っていたよりずっとこの『四つの枢要徳』の解説が面白かったので(まだ「正義」だけですが)、ぜひ前回の記事も読んでいただけると嬉しいです。

個人的には「なるほどなー」と、たまたまにしても知れて良かったなと思える内容でした。

今回は『四つの枢要徳』の二つ目になります。

私自身、まだ内容を知らないのですが先が楽しみです。

では、早速参りましょう。

前回の記事はこちら

『The Pictorial Key to the Tarot(§2 TRUMPS MAJOR)』和訳|マルセイユタロット【隠者】Vol.4 | タロットの世界

マルセイユタロット「隠者」の欄で語られる『Transcendental Justice(超越的な正義)』と『四つの枢要徳』を丁寧に解説。天秤・悪魔・サイコロなどの象徴を読み解きなが…

今回の文章:『四大枢要徳』――「節制」の再表現(神的なエクスタシー)

今回扱う文章です。

(b) Divine Ecstacy, as a counterpoise to something called Temperance, the sign of which is, I believe, the extinction of lights in the tavern.

The corresponding counsel is to drink only of new wine in the Kingdom of the Father, because God is all in all.

The axiom is that man being a reasonable being must get intoxicated with God; the imputed case in point is Spinoza.

※原文にある改行時に用いられるハイフン(-)は省略しています。

Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より

また一文ずつ見ていきたいと思います。

では、よろしくお願いいたします。

一文目:酒場の灯りが消えること――節制のもう一つの側面とは

一つ目の文章は〝(b) Divine Ecstacy, as a counterpoise to something called Temperance, the sign of which is, I believe, the extinction of lights in the tavern.〟です。

いつも通り、単語等のチェックから行っていきます。

Ecstacy → エクスタシー、恍惚、狂喜、忘我
counterpoise → 対抗均衡、釣り合い
temperance → 節制
extinction → 消灯、消滅
tavern → 居酒屋、宿屋、酒場

※ここでは一般的なものを挙げています。

またしても、面白そうな単語が飛び交っております。

では、見ていきましょう。

まず〝(b) Divine Ecstacy〟ですが、こちらは「(b)神のエクスタシー」というような意味でしょうか。

「エクスタシー」は、現在では性的な快楽という意味で使われることが多い印象ですが、本来は「恍惚(こうこつ)」「狂喜」「有頂天」「無我夢中/忘我」「歓喜」など幅広い意味を持つ非常に多様な語だそうです。

以前からお伝えしていることになりますが、〝divine〟は「占い」とされることが多いようですが、ウェイトは〝divine〟を「神」「神聖な」というような意味を込めて使っているように思います。

また、ここでの〝ecstacy〟は理解するよりも感じるものだと判断し、小難しい日本語に訳すよりも「エクスタシー」とする方が適していると感じました。

ちなみに本来の綴りは〝Ecstasy〟です。少し前にも似たようなことがありましたが、1910年当時にはこのようなミスが多くあったそうです(ウェイト自身によるものか出版社等のミスなのかはわかりませんが)。当サイトは基本的には原文を表示しています。

次に〝as a counterpoise to something called Temperance〟ですが、こちらが「節制と呼ばれている何かの対抗均衡として」というような感じでしょうか。

「対抗均衡って何?」という感じがしますよね。私もそう思います。

理解できている方には申し訳ないですが、お付き合いください……。

「対抗均衡」――前回の話ではありませんが、天秤をイメージしていただくと良いかも知れません。

天秤の片側にだけ重りを乗せると、当然それは片方だけに傾きますよね。

しかし、両方のバランスを取ろうとしたら、それはもう片方のお皿に同じくらいの重りを乗せなければならないですよね。

つまり「対抗」とは言いますが、単なる「反対」とかではなく、「反対側に置かれることで全体のバランスを保つこと」というようなイメージかと思います。

まだ道半ばですが、恐らく「神のエクスタシー」と「節制」が、そのような関係にあると言っているのだと思います。

念のためお伝えしますが、ここでの理念と言いますか、ウェイトによる『再表現』は、もちろんウェイト=スミスタロットに反映されているものだと思いますが、この解説自体はタロットカードの「節制」ではなく、『四つの枢要徳』の「節制」を指します(お間違いなく)。

続いて〝the sign of which is, I believe〟とありまして、こちらが「その(節制の)サインは、私が信じるに」というような意味です。

日本語的には「私が思うに」というような言い分だと思いますが、その中でも「固く信じていること」というようなニュアンスなのかなと思います。

そして、最後に〝the extinction of lights in the tavern〟とありまして、こちらが「居酒屋の灯りが消えること」というような意味でしょうか。

訳していながらなのですが、私自身は「英語ができる!!」わけではありません。

ですので、一節一節訳していると、途中から頭の中がどんどんごちゃごちゃになってしまうんですね。使われている単語だけが、ただ記憶に残っているだけと言いますか…。(汗)

今のところ、「神」と「エクスタシー」と「節制」と「居酒屋」がどう繋がるのか、私自身も全然わからないのです。

ということで、一度繋げて見ていきましょう。

〝(b) Divine Ecstacy, as a counterpoise to something called Temperance, the sign of which is, I believe, the extinction of lights in the tavern.〟

→ (b)神のエクスタシー、節制と呼ばれている何かの対抗均衡とし、その(節制の)サインは、私が信じるに、居酒屋の灯りが消えることである

このような感じでしょうか。

まずはいつも通り、日本語としては不自然でも、文の構造に沿った究極的な直訳に寄せます。

しかし、これではあまり意味がわかりません(私は)。

いえ、言っていることはわかるのですが、これを言うことで何を伝えたいのかがあまりわかりません…。

とは言え、今回は詳細は後回しにします(細かな解説は最後の『まとめ』をご覧ください)。

では、先へ進めます。

二文目:神のエクスタシーに対応する助言――父の国の新しいワイン

二つ目の文章は〝The corresponding counsel is to drink only of new wine in the Kingdom of the Father, because God is all in all.〟です。

わからない単語がなかったので、このまま読み進めていきたいと思います。

まず〝The corresponding counsel is〟ですが、こちらは「その対応する助言とは~です」という意味です。

この〝corresponding counsel〟という単語(フレーズ?)は、今後もしばらく出てきそうですね。

次に〝to drink only of new wine〟ですが、こちらは「新しいワインだけを飲むこと」というような意味でしょう。

「は?ワイン?いきなり何?」という感じがしますが、このまま突き進みます。

続いて〝in the Kingdom of the Father〟ですが、こちらが「父の王国において」というような意味だと思います。

それは一体何処の国のことを指すのでしょうか?

そして〝because God is all in all〟ですが、こちらが「何故なら、神は全てにおいて全てだからです」というような意味でしょう。

割と淡々と訳せはしましたが、私には何が言いたいのかさっぱりわかりません…またキリスト教に関わるような話なのでしょうか?

一度まとめてみましょう。

〝The corresponding counsel is to drink only of new wine in the Kingdom of the Father, because God is all in all.〟

→ その対応する助言とは、父の国において、新しいワインだけを飲むことであり、何故なら神が全てにおいて全てだからである。

ひとまず直訳ですが、前文が「(b)神のエクスタシー、節制と呼ばれている何かの対抗均衡とし、その(節制の)サインは、私が信じるに、居酒屋の灯りが消えることである」とあったのに対し、全然意味が繋がりません。(泣)

あまりにもわからな過ぎるので、更にこのまま先へと進めたいと思います。

「どうせ」と言うのもなんですが、あまりにも内容がわからない場合、何らかの文献を引用したようなケースが多かった印象があるので、まとめて調べたほうが良いと判断しました。

では(b)の部分、最後の一文を見ていきましょう。

三文目:哲学者スピノザが示す「神に酔う」という真理

最後は〝The axiom is that man being a reasonable being must get intoxicated with God; the imputed case in point is Spinoza.〟です。

わからない単語等の確認からしていきます。

reasonable → 理性的、理知的な、道理をわきまえた
intoxicated → 酔った、中毒になった
imputed → 帰属させられた、割り当てられた
case in point → 典型例、適切な例
Spinoza → スピノザ(オランダの哲学者)

※ここでは代表的なものを挙げています。

〝reasonable(リーズナブル)〟の意味を、念のため改めて調べておこうと思ったらびっくりしました。

誰なのでしょう?

「リーズナブル」という語が「安い、お得」というような意味だと広めた人は…。(笑)

実際には上記の通りで、もはや英語と日本語の「リーズナブル」は別物だったのですね。

では、参りましょう。

まず〝The axiom is that〟ですが、こちらは「その真理は~ということです」というような意味です。

前回でも使われていたフレーズでしたね。「真理」とする理由はその時に述べましたので割愛します。

次は〝man being a reasonable being〟ですが、こちらが「人間が理性的な存在であるので」というような意味かと思います。

続いて〝must get intoxicated with God〟ですが、こちらが「神と共に酔った状態にならなくてはならない」というような意味でしょうか。

〝intoxicated〟だけでも「酔った」を意味するのですが、〝get〟があることで〝状態〟を表すような文章になります。

わかりやすく言いますと、「べろべろに酔ったような状態に到達しなくてはならない」=「無我夢中になりなさい」というようなニュアンスなのかなと思います。

そして最後に〝the imputed case in point is Spinoza〟とありまして、こちらが「その割り当てられた典型例はスピノザである」という意味だと思います。

新たな人物が登場しましたね。スピノザについてはまた後程触れたいと思います。

一度、まとめてみましょう。

〝The axiom is that man being a reasonable being must get intoxicated with God; the imputed case in point is Spinoza.〟

→ その真理は、人間が理性的な存在であるので、神と共に酔った状態にならなくてはならないということであり、それに割り当てられた典型例がスピノザである。

言っていること自体はわかるのですが、やはり全体を通して何を言っているのかほとんどとわからないですよね…。

ねっ?

今回の細かな訳の調整や内容についての解説は、『まとめ』の方で触れていきたいと思います。

ぜひ最後までお付き合いください。

まとめ

改めて、今回の扱った文章のご紹介です。

(b) Divine Ecstacy, as a counterpoise to something called Temperance, the sign of which is, I believe, the extinction of lights in the tavern.
The corresponding counsel is to drink only of new wine in the Kingdom of the Father, because God is all in all.
The axiom is that man being a reasonable being must get intoxicated with God; the imputed case in point is Spinoza.

Arthur Edward Waite
『The Pictorial Key to the Tarot』より

また、これまでの流れも把握できた方がわかりやすいと思うので、前回の結論もお伝えしておきます。

(a)超越的な正義、それは天秤が神の側へ大きく傾き、深く沈み込んだ時のアンバランスな状態である。
それに対応する助言は――あなたが悪魔相手に一世一代の大勝負をする時には、いかさまのサイコロすら使え――ということである。
その真理は〝神か、さもなくば無か〟である。

そして、今回のこれまでの訳です(多少不自然でも、なるべく原文に手を加えずダイレクトに訳したものになります)。

→ (b)神のエクスタシー、節制と呼ばれている何かの対抗均衡とし、その(節制の)サインは、私が信じるに、居酒屋の灯りが消えることである

→ その対応する助言とは、父の国において、新しいワインだけを飲むことであり、何故なら神が全てにおいて全てだからである。

→ その真理は、人間が理性的な存在であるので、神と共に酔った状態にならなくてはならないということであり、それに割り当てられた典型例がスピノザである。

最後に、本文の内容をより忠実に整えた(当サイト比)訳がこちらです。

(b)神的なエクスタシー、〝節制〟と呼ばれるものに対する均衡とされ、その兆しは酒場の灯りが消えることだと私は確信している。
それに対応する助言とは――父の国では新しいワインだけを飲むこと――何故なら、神は万物の全てであるからである。
その真理は、人間が理性的な存在であるからこそ、神に陶酔せねばならず、その典型例がスピノザである。

相変わらず、内容そのものはあまり理解しづらいものの、日本語としてはだいぶ自然になったのではないかと思います。

今回は一文ずつ内容を解説するより、最後にまとめた方が良いと思いました。

私も、ようやく掘り下げていくことができるので楽しみです!!

「神的なエクスタシー」とは?
神的なエクスタシーが、酒場の灯りが消えることと均衡を取るってどういうこと?
父の国では新しいワインだけを飲め?どういうこと?
というか「父の国」って何?
「人間が理性的な存在」それはわかる。けどだからこそ神に陶酔するってどういうこと?
スピノザって誰?
というかここ、確か『四大枢要徳』の〝節制〟を再表現したとこじゃなかった?
〝神的なエクスタシー〟の方が主役みたいじゃない?

今回、道中に私が思ったことを素直に並べてみました。

では、これらの考察も含め、解説に入りたいと思いますが、既にこれだけの疑問点があるので恐らく長期戦になるかと思います。

どうぞ温かいお茶でもご用意の上、「ほっ♪」と一息のお供にしていただければ幸いです。

解説・考察

では早速、それぞれの疑問についての考察を挙げていきます。

まずは〝Spinoza(スピノザ)〟を抑えるのが一番良いと思ったので、私なりに簡単にまとめました。

Spinoza(スピノザ)

最初に「スピノザについての動画が多く挙がっていたので、ぜひ見てみてください!」とお伝えしたいです。

サボりたいわけではありません。(笑)

YouTubeに挙がっていた動画を5~6つほど見ただけですが、スピノザの視点は「え?本当だ……」と、つい言葉を漏らしてしまったほど、個人的には「すごいなー」と思う内容でした。正直〝簡単に〟まとめるなんてもったいない(烏滸がましい)と思いまして、はい。

ですが、まだまだ先が長そうなので、やはりここではご紹介程度に留めますが、スピノザの入り口として参考にしていただけたら嬉しく思います。

スピノザは17世紀、オランダのアムステルダムで生まれました。

スピノザ
Baruch De Spinoza
出典:Wikimedia Commons

17世紀と言うと、16世紀に起きた宗教改革の後くらいの時代になります。

その名の通り、それまでのキリスト教の仕組みが大きく変わり、社会のルール、人々の価値観、政治の力関係、学問の自由などが、西ヨーロッパ全体に徐々に広がり始めた頃でした。

スピノザは、貿易を営むユダヤ人の家庭に生まれました。

幼い頃から学問の才能があったものの、家業を手伝うことに専念していました。

そのためなのか、当時のユダヤ教の教えからはかけ離れた自由な発想を持つ人物でした。

しかし、その発想(思想)はユダヤ教の脅威でもありました。

狂信的なユダヤ教徒からは殺されかけたり、執筆した書物は禁書とされたり、スピノザがどれほどまでに脅威だったのかが伺えると思います。

スピノザは44歳という若さで亡くなってしまいましたが、彼の思想は現在でも多くの方を魅了しています。

スピノザは、『汎神論(はんしんろん)』という思想を唱えました(『神即自然』という言い方もあるそうです)。

個人的に、この思想には思わず「おーーー!!(歓喜)」となってしまったので、ぜひ知っていただきたいです(既にご存知の方には素人の新しい発見の喜びとして温かく見守っていただけたらと思います)。

『汎神論』は〝神=自然=世の中の全て〟という考え方です。

これだけを聞くと「別に普通じゃん」と思われてしまいそうですが…現在でも〝神〟と聞くと、それは絶対的な支配者のような存在ではありませんか?(支配者という言い方が適切でなかったらすみません)

「神様が言うことは絶対」
「神様の教えに背くと罰が当たる」

こうしたフレーズは、特定の宗教を信仰しているしていないに関わらず、誰もが一度は耳にしたことがあると思います。

加えて〝神様〟という存在は唯一無二で、太古から〝遠くのどこかで見守ってくれている存在〟というのが一般的なイメージではないでしょうか。

スピノザも、何もこのようなことを否定したり、「実は神様は二人いる」とか、そういったことを唱えているわけではありません。

むしろ、スピノザの『汎神論』は「神は絶対的な存在」というのが大前提だと思います。

「神様って無限の存在でしょ?限りがないってことだよね?っていうことは有限じゃないってことだよね?なら限界はないってことだよね?」

こちらは、多くの方が納得できることだと思います。

しかし、この〝無限である神様=限界がない神様〟だからこそ、スピノザはある重大なことに気付いてしまったのです。

「神様に限界がないなら、神がいない場所なんて存在するのだろうか……?」

無限であるということは、何処かに境界線があって「ここからここまでが神で、ここから先は神ではない」と区切れるわけがありません。

もし、区切ることができてしまうのであれば、それは〝有限〟の証明であり、〝無限〟と呼べなくなってしまうからです。

であるならまた、外部や内部といったものも存在するわけはなく、全ての存在事物が〝神〟となる、スピノザはそのように考えたのです。

それが〝神=自然=世の中の全て〟ということになります。

字(文章)で書くと、「私たちといった存在や自然そのものが神と一緒」というようにも理解できてしまうと思うのですが(最初私はそうなのかと思ってしまいました)、そうではなく、「そもそも神や自然、自分たちを別々のものとして分けることが間違いだ」という考え方なのです。

言い換えます。

「世界のいろいろが神の一部分なのではなく〝世界の全て=神そのもの(の在り方/擬態)〟なのに、それを私たちが勝手に分けて見ているだけ」というような言い分なのだそうです。

面白くないですか?
この面白さが伝わっていると良いのですが…。

しかし、先程もお伝えしましたが、それまでのユダヤ教やキリスト教では、〝神〟とは何らかの意思を持ってお告げをもたらしたり、裁きを下すような存在でした。

スピノザの『汎神論』は、元来の神のイメージが絶対的なほど説得力を増すのは言うまでもありませんが、それを認めてしまうと〝神が神に対しお告げをし、裁きを下している〟という構造になってしまうのです。

そのため、スピノザの思想は、当時の権力者からは無神論(者)とされ、『汎神論』は哲学というジャンルから外されてしまったようです。

当時のキリスト教は、異端とされるものを迫害したり、厳しく取り締まっていたので、スピノザが命の危険にさらされたというのは想像に難しくないと思います。

本当にこの時代の哲学者たちは、権力といったものからは程遠く、真実を追い求め、命懸けで自分の思想を貫いていたのだと思いました。

スピノザの思想があまりに的を得ていたからこそ、そのような対象になってしまったのでしょう。

結果的にスピノザは、ユダヤ教やキリスト教を敵に回すような立場になってしまったわけなのですが、スピノザの思想を否定すればするほど、今度は自分たちが崇めている神そのものを否定することになってしまうというループ――この矛盾は、スピノザの着眼点の鋭さはもちろんのこと、もしかしたら誰よりも〝神〟に対して真摯だったのからこそ気付くことができたのかも知れないなと思いました。

ここまでがスピノザの『汎神論』になりますが、実は他にも、スピノザの面白い(当時の人にとっては恐ろしい)解釈はまだまだたくさんあります。

ここでは、もう一つ『決定論』もご紹介させてください。

『決定論』は、「自由意志は存在しない」という考え方です。

もしかすると、「え?自由な意志は存在するでしょ?何言ってんの?」と反論したくなる方もいらっしゃるかも知れません(10代の頃の私ならそう思った気がします笑)が、あくまでウェイトの文章の理解を深めるためのご紹介なので、どうか穏便に…。(汗)

ですが、こちらも物凄く面白い考え方なので、ぜひ知っていただきたいです!!

スピノザは「全てが神そのものであるならば、この世の出来事は全て、数式が解かれるように〝なるべくして起きている(必然)〟」と言うのです。

「あれ?天気予報じゃ晴れだったのに雨なの?」
「調子に乗って食べ過ぎちゃった…ダイエットしなきゃ」
「先月使い過ぎちゃった、今月は我慢しよ」

などなど…今日、私たちが思うようなことは、スピノザに言わせれば、全て巨大な宇宙の仕組みの一つに過ぎないということなのです。

つまりそれらも〝神〟というわけなのです。

「え?それじゃ私が感じている〝自分〟って一体…」と悲しくなってしまう方、逆に「いやいや、私が決めてるんだから私でしょ!(怒)」とイラッとされてしまった方、一見まるで〝自分〟という者の存在を否定されたかのように聞こえてしまった方もいらっしゃるかも知れませんが、実は論点はそこではありません。

スピノザは、「この仕組み(神)を理解すれば、不安になる出来事や、じたばたしなくてはならないような出来事から解放される。そして究極の安心感が得られるんだ。」と言っているのです。

つまり、自分が存在するかしないという話ではなく、物事が起こる仕組みについて話しているんですね。

ここからは、ウェイトの文章を引用して説明をします。

ウェイトが、『四大枢要徳』の「節制」(ウェイトの再表現したもの)と、いわゆる世間一般が捉える「節制」を天秤にかけていることはお気付きのことだったかと思います。

ですが、それは両者の優劣を決めるようなことではなく、あくまでも均衡を取るものとして挙げられています。つまり〝対〟というような関係になるわけです。

ウェイトは、後者の「節制」を「酒場の灯りが消えるという状態」という例を用いて表現していますよね。

どういう理由でかははっきりとは描かれていませんが、大抵は金銭的な節約を思い浮かべるのではないでしょうか。

他にも、例えば「本当は食べたいけど、ダイエットしてるからやめとこ…」「本当は買いたいけど来月の支払いが…」など、このような〝我慢〟は誰もが経験したことがあると思います。

節約をしたり、欲求を抑えたり、もしかすると「○○しなきゃ良かった…」と後悔していることもあるかも知れません。

ですが、これがまさしくウェイトの言う「酒場の灯りが消える」ということなのです。

しかし、それがスピノザの視点を通してみると、「なるべくして起こっている事なんだから気にすることなんてないんだよ。不安になるのは〝自分〟という存在がいると勘違いして、〝自分〟を中心に置いて見ているからじゃない?さっきも言ったけど、それすら全部が神なんだから、計算通りに決まってるじゃない♪」というような言い分になるはずなのです。

恐らく、ウェイト的には「我慢しなきゃいけないような現実も結局は神なんだから、ジタバタ(コントロールしようと)せずにその神に酔っていたらいいんだ。我慢することが本当の節制ではなく、その神に酔いしれることこそ本当の「節制」なんだから!!」というようなことを言いたいのではないかと思います。

意味、伝わりますでしょうか?

私自身、スピノザを昨日今日知ったばかりの新参者ですが、この(b)には、スピノザの要素(思想)が多く深く反映されている部分だと思います。

あまり上手くウェイトとスピノザの関係性を説明できたかわかりませんが、何かしら伝わるものがありましたら幸いです。

他にもお話ししたいことが山ほどあるのですが、ウェイトとの関連性が深く強いところは、これらの点かと思うので、スピノザについてはこの辺にしたいと思います。

長々とご清聴ありがとうございました。

その他の疑問点

では、ここからが本番(?)ということで本題に戻りたいと思います。

まだ解けていない謎を、紐解いていこうではないかと思います。

「神のエクスタシー」ではなく「神的なエクスタシー

最初の訳では「神のエクスタシー」としていましたが、最終的な訳の仕上げを考えている際と、スピノザについて調べていると、「神的なエクスタシー」とする方が適していると考えました。

「神の」とすると、神様が感じているエクスタシーということになってしまうと思うのです。

また「神聖な」とするのもちょっと違うかなと感じました。これは完全に私個人の感じ方でしかないのですが。

それに、これまでお伝えしたスピノザの思想を、実際に体感できるものとして想像してみてください。

神なんですよね。神。

ですが「私(自分自身)が神」ということではないんですよね。何せスピノザ論では〝神〟とか〝私〟などの区別がないわけですから。

なので「神」の一言に尽きてしまうのかなと私は感じるのですが、やはりそれでもちょっと「うふふふ」みたいな気分にはなりませんか?

なりませんかね…正直私は今、物凄い笑顔でこの文章を書いています。

「恍惚」という言葉を、私自身これまでの人生で使ったことがなかったので、どちらかと言えば「高揚」に近い気がしますが、嫌な気はしないと思ったんですよね。

よって、〝神のような状態〟〝神に近い精神状態〟ということを表現できるといいのかなと思い「神的なエクスタシー」としました。

父の国では新しいワインだけを飲め」とは?

いくら『The Pictorial Key to the Tarot』を通してキリスト教に触れる機会が増えたとは言え、私はまったく気が付きませんでした。

キリスト教では、この「父」という言葉も〝神〟を示し、神と家族のような親密である関係を表す語だそうです(なるほど!!)。

つまり〝神の国〟とも言い換えることができると思うのですが、「じゃぁ〝神の国〟ではだめだったのかな?」と、ついそのようなことを思ってしまいました。

また、この部分は聖書(『マタイによる福音書』26章29節)から取り入れているようでした。

あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

※イエス・キリストの言葉の途中から一節になっており、文末の鍵括弧は間違いではありません。

みなさん『最後の晩餐』はご存知でいらっしゃいますよね。この言葉は、最後の晩餐でイエスが弟子たちに語ったものとされています。

「今後決して~飲まない」という部分は「私は明日処刑されるから、もうこの世で食事をすることはない」と解釈され、「わたしの父の国で~その日までは」というのが「死=終わりではない」「神の国で再会し、そこでまた新しいワインを共に味わおうじゃないか」というようなことを言っているそうです。

明日死ぬのであれば、実際には「飲まない」のではなく「飲めない」はずなのですが、別れのメッセージにしては強気(ポジティブ?)な印象がありますよね。

あっているかわかりませんが、ウェイト的には神の国で飲むワインは、きっと〝極上のもの〟というような比喩なのだと思います。

また、改めて〝tavern(酒場)〟を調べてみますと、やや「田舎っぽい」「大衆/庶民的」「安っぽい」というようなイメージはあるようで、やはりこちらも父の国のワインとは対照的であることを強調したかったのかなと考えられます。

つまり…と言って良いものか悩みますが、〝これから極上のワインが飲めるから、わざわざ大衆的な酒を飲む必要がない=我慢にもならない〟というような考え方ができるのではないでしょうか。

だからこそ、(b)では本来主役になる「節制」よりも〝Divine Ecstacy(神的なエクスタシー)〟を主役にし、ウェイトはウェイトなりの『真の節制』を再表現したかったのだと思います。

全然関係ないですが、かなり前に一度だけ『マタイによる福音書』取り上げたことがあったのですが、私も何故取り上げたのかを覚えておらず……その時の記事を見返して「あー!懐かしい!チボリウムだ!」というような気持ちになりました(タロットのカップのAに描かれている杯をウェイトは〝ciborium/チボリウム〟と呼んでいたんですね)。宜しければ、その時の記事も見てみてくださいね。

「人間が理性的な存在」だからこそ「神に陶酔する」とは?

最後に、「人間が理性的な存在だからこそ神に陶酔するとは?」という疑問点について、考察を述べたいと思います。

これまでのことも踏まえて、ようやく様々な不足したピースが揃うような気がします。

長々と言葉(文章)での説明になってしまい恐縮ですが、今しばらくお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

私は、あまり自分が理性的だとは思えないのですが……それでも〝人間〟という生き物は理性的なんでしょうね。

スピノザの世界観(思想)を理解するには、まずその理性が必要になります(あくまでスピノザが言うにはですからね)。

「世界が神なんだ」
「全ての出来事が完璧である」

この真実に辿り着ける者は、理性を使って考え抜いたからこそであり、それを理解した時に初めて深い安心や喜びが得られると言います。

つまり、これまでのことも踏まえますと〝理解が深まるほど神的なエクスタシー〟を感じられるということはご理解いただけるかと思います。

それが〝神(の世界観)に酔えば酔うほど〟という意味で「神に陶酔する」と言っているのだと思いました。

当然ですが、ついはしゃぎ過ぎて我を忘れるような酔い方は理性を失っている状態ですよね。

同じ〝酔う〟でも、本当に見事に対照的なものを挙げていて(均衡として)本当にすごいなと思いました。

最初に訳しただけではまったく意味がわかりませんでしたが、こうして一つずつ紐解いていくことで、こんなところに辿り着くんですね。

最後にもう一度、今回の最終訳をお伝えしておきます。

(b)神的なエクスタシー、〝節制〟と呼ばれるものに対する均衡とされ、その兆しは酒場の灯りが消えることだと私は確信している。
それに対応する助言とは――父の国では新しいワインだけを飲むこと――何故なら、神は万物の全てであるからである。
その真理は、人間が理性的な存在であるからこそ、神に陶酔せねばならず、その典型例がスピノザである。

きっと少し前に見た時よりも、理解が深まっているはずです^^

では、解説と考察は以上となります。

みなさん、お疲れさまでした。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

いやはや、一つの文章に含まれている情報が多いこと、多いこと……大変でしたね。満身創痍です。(笑)

では、また次回お会いしましょう(引き続き「隠者」が続きます)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA